第25話 王太子は父王の本文を暴く
〖明日の王都瓦版〗
王太子ギルベルト、父王への告発を撤回。
死亡した公爵令嬢による扇動を認め、王家和解へ――
謝罪文は、罪を認めるためだけにあるのではない。
誰の罪にするかを先に決めておくためにも使われる。
王宮の公開諮問会は、朝からひどく整っていた。
貴族議員。教会の高位聖職者。王都各区の代表。記録官。瓦版売りまでが、広間の後方へ押し込まれている。中央には父王の高座。その右に大司教。左には重臣たち。
そして一段低い場所に、ギルベルトが立っていた。
彼の前には一枚の紙がある。
あまりに白く、あまりに皺がなく、本人のために用意された文章というより、本人を入れるために作られた棺のようだった。
「私、王太子ギルベルトは、このたび父王陛下へ向けた告発について――」
読み上げが始まる。
広間のあちこちで、安堵の息が漏れた。
王太子も結局は折れた。
王家は和解する。
死んだ悪役令嬢が、最後に王子を惑わせただけだった。
人々が欲しがっていた終わり方は、すでに二行目まで用意されている。
旧記録官席の裏、壁の格子に身を隠したアリアドネは、その光景を黙って見ていた。
黒い外套。深く被ったフード。隣にはクララ。さらに奥の狭い通路では、ヨハンが退路を確かめている。
死者に傍聴席はない。
だから壁の中から読むしかない。
「殿下……」
クララが、ほとんど息だけで囁く。
ギルベルトは謝罪文の二行目へ視線を落とした。
そこには、こう書かれているはずだった。
――死亡したアリアドネ・エルディアンの扇動により、判断を誤った。
だが彼は、その先を読まなかった。
紙を閉じる。
静かな音だった。
それなのに、広間じゅうの呼吸が止まった。
「この文を書いたのは、私ではない」
国王の眉が、わずかに動く。
「読み上げよ」
「お断りします」
「ギルベルト」
「私の名で配る文章なら、せめて私に書かせてください、父上」
彼は謝罪文を二つに裂いた。
大げさな音はしない。
紙は剣ではないから、切っても血は出ない。
けれどその瞬間、用意されていた王家和解の筋だけが、広間の中央で真っ二つになった。
「私は今日、父上を告発する前に、私自身の正義を告発します」
ギルベルトは傍らの机へ手を伸ばした。
古参書記たちが、封を解く。
現れたのは、何十もの原稿束だった。
《アリアドネ断罪》。
《アリアドネ亡命》。
《アリアドネ狂乱》。
《アリアドネ死亡》。
さらに《王太子弑逆》《王太子忠誠》《聖女慰撫》《王都平穏回復》。同じ日付に、互いを否定する朝がいくつも重なっている。
「私は、最初に届いた紙を信じました」
ギルベルトの声は震えていない。
だが、震えないために何かを切り捨ててきた声だった。
「アリアドネを見ず、彼女について書かれた見出しを見た。救出劇の英雄と呼ばれ、その余熱のまま彼女を裁こうとした。王太子という立場で、書かれた筋へ権威を与えた」
前列の貴族が目を伏せる。
告白というものは、聞く側にまで主語を要求する。
「彼女に騙されたからではありません。私が、考えずに済む正義を選んだからです」
アリアドネは格子の奥で、ほんの少しだけ目を細めた。
最初から正しかった王子など、信用できない。
間違えた場所を自分の言葉で指し示せる人間なら、まだ使い道がある。
ギルベルトは赤版を広げた。
「ここには、罪が起こる前から拘束予定者が記されている。証言の参考文句まで用意されている。こちらは私が父王を殺した場合の初稿。こちらは忠誠を誓った場合。そしてこちらは、どちらにも使える情緒記事です」
紙が回される。
同じ日付。同じ人物。違う結末。
読む者たちの顔から、昨日までの便利な確信が剥がれていく。
「父上」
ギルベルトは高座を見上げた。
「どれが未来だったのですか」
国王は答えない。
「それとも、採用された一枚だけが未来になったのですか」
長い沈黙ののち、国王は肘掛けへ指を置いた。
「そなたは、国が何で保たれていると思う」
「法と信義であると、教えられました」
「幼い答えだ」
父王の声は穏やかだった。
穏やかな声で言われる冷酷は、反論する者を未熟に見せる。
「真実が国を治めるのではない。人々が同じものを真実だと思うことが、国を治めるのだ。飢饉の時に百の解釈を与えれば、百の買い占めが起きる。反乱の時に百の正義を許せば、百の処刑台が立つ」
「だから一つにする、と」
「一つにしなければ、国という形を保てぬ」
広間の何人かが頷いた。
理解ではない。
怖さに理由を与えられた時の頷きだ。
国王は続ける。
「そなたが並べた紙は、可能性にすぎぬ。王は可能性を選び、民が歩ける一本の道にする。それが統治だ」
「その道から落とされた者は?」
「国は、すべてを救う物語ではない」
父子の間に、何かが静かに終わった。
ギルベルトは目を逸らさない。
「では、父上がすべてを書いたのですか」
「私は承認した」
国王は言った。
「書いてはいない」
ざわめきが走る。
アリアドネの指が、格子へ触れた。
そこだ。
王は最上段に見える。だが紙を回す手は、王一人ではない。
「誰が書き、誰が直し、誰が採用したのです」
ギルベルトの問いに、今度は大司教が立ち上がった。
「王太子殿下」
白い祭服の裾が、石床を撫でる。
「未来を扱う文章には、政治上の承認と、道徳上の承認が必要です。王宮が国益を量り、教会が人心への害を量る。最終校閲印が押されたものだけが、正式な《明日の王都瓦版》となる」
「その印を管理しているのは」
「私です」
言い切る声には、隠す気がなかった。
隠す必要がないほど、長く正当化されてきた権限なのだ。
「リーゼロッテ・ミュルクは?」
「編集に携わる者の一人にすぎません」
クララが小さく息を呑む。
アリアドネは驚かなかった。
リーゼロッテの私信には、《今夜もご指示ください》とあった。彼女は他人の人生を編集しながら、自分の一文さえ誰かへ委ねていた。
ギルベルトは別の古文書を掲げた。
「ならば、この記録もあなたの管理下にあったのですね」
紙面上部に、古い王立瓦版局の印。
その下に、一人の名がある。
王立瓦版局校正官。
セラフィナ・エルディアン。
アリアドネの呼吸が止まった。
母の名が、公の場で読まれる。
病弱な妻でも、早く亡くなった母でもない。
職務と行為を持つ、一人の人間の名として。
「校正規則違反。未承認異稿の保存。責任表示欄の無断追加。これを理由に解任、とあります」
大司教は、その名を見ても表情を変えなかった。
「危険な校正官でした」
「危険?」
「未来を複数のまま民へ渡そうとした。原稿者と承認者を明かし、異稿を保存し、処分される者へ反論の紙面を与えよと主張した」
大司教の声には、古い不快があった。
「読者へ選ばせれば、誰も責任を取らない。あの女は国を、永遠に校了しない原稿へ変えようとしたのです」
アリアドネは、笑いそうになった。
ずいぶん違う。
母は責任をなくそうとしたのではない。
隠されていた責任を、欄外へ戻そうとしたのだ。
「そして、彼女は病没した」
ギルベルトが言う。
大司教はわずかに目を細めた。
「公式記録では、その通りです」
公式記録では。
その言葉だけが、ひどく濃く残った。
諮問会は怒号の中で中断された。
父王への告発は撤回されなかった。だが同時に、国王一人を倒せば済む話でもなくなった。
王宮と教会。
原稿と承認。
書いた者と、書かせた者。
いままで欄外へ追いやられていた主語が、一斉に本文へ出ようとしている。
アリアドネたちは、旧組版室へ戻った。
夕刻近く、古参書記が二つの写しを持って現れる。
一つは、母の病没記事。
もう一つは、教会西棟の隔離記録から見つかった死亡台帳だった。
「議場の古文書に挟まれていました」
書記の声がかすれる。
「誰かが、別々にして残したのでしょう」
アリアドネは二枚を並べた。
病没記事の承認日。
死亡台帳の日付。
二十八日、離れている。
「……お嬢さま?」
クララが恐る恐る覗き込む。
病没記事の欄外には、古い最終校閲印があった。
聖輪の下に三本の光。その左端だけがわずかに欠けている。
今日、大司教が使った印と同じ欠け方だった。
アリアドネは二つの日付を、指でなぞった。
指先が冷たい。
けれど声だけは、不思議なほど静かだった。
「お母さまは、亡くなったから病没記事にされたのではない」
古いインクの匂いが、急に濃くなる。
「病没記事にされたあとで――亡くなったのね」




