第21話 死んだ悪役令嬢は脚本を盗む
【明日の王都瓦版】
悪役令嬢アリアドネ、審問後に死亡。
王都、長き混乱にひとまずの決着――王太子殿下は深い沈黙。
死んだ人間は、思ったより自由だ。
少なくとも王都ではそうだった。
生きている間は家名を問われ、婚約を問われ、礼節を問われ、感情の置き方まで採点される。だが死んだ途端、人は綺麗な要約になる。哀れな悪役。悔い改めた罪人。あるいは神罰の実例。
本文を奪われた代わりに、監視も少し薄くなる。
地下水路の先、旧瓦版局の搬入路は、黴とインクが混ざった匂いがした。
ヨハンが待っている。
その隣には、王太子府の古参書記までいた。
「ご無事で」
「死にましたわよ、紙の上では」
アリアドネが答えると、ヨハンは渋い顔で肩をすくめた。
「そいつぁ上出来だ。生きたまま動くより、死んだあとに潜るほうが、編集室には入りやすい」
古参書記が深く頭を下げる。
「殿下は表立って助けられません。ですが、印章で開けられる鍵と、今夜だけ空く通路をお渡しします」
差し出されたのは、真鍮の小鍵と通行札だった。
「なぜ、そこまで」
「殿下が仰いました」
書記は静かに言う。
「“生きている私より、死んだ彼女のほうが先に真実へ届く”と」
アリアドネは何も返さなかった。
ただ、ギルベルトがもう“正義の主人公”ではなく、紙面の外で手を汚す側へ踏み込んだのだと理解する。
旧搬入路の奥には、現役の瓦版局地下へつながる狭い回廊があった。
壁に吊るされた没版。焼かれ損ねた号外。配布前に差し替えられた欄外記事。ここは未来の墓場だ。
「原稿庫は三つあります」
ヨハンが低く説明する。
「表に出る通常版。誰にも見せねえ白版。んで、最初の最初、まだ“どう書くか”も決まってねえ初稿置き場だ」
「欲しいのは最後ですわね」
「だろうな」
アリアドネはフードを深く被り直した。
自分の死亡記事を胸に入れているのが可笑しかった。通行札より効く紙もある。死者は確認されにくい。
見張りを避け、三人は回廊を進む。
途中、壁一面に貼られた“彼女の死後の王都”の試し刷りが目に入った。
《王都、ようやく平穏へ》
《王太子、祈りに沈黙》
《リーゼロッテ嬢、傷ついた民を慰撫》
よくできている、とアリアドネは思った。
自分が死ねば、世界はたしかに整って見える。だからこそ腹が立つ。
初稿庫の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
部屋じゅうに積まれているのは、完成前の未来だ。
同じ日の、異なる朝。別々の見出し。採用されなかった王都。消された可能性。誰にも読まれなかったために現実になれなかった筋書き。
アリアドネは思わず息を呑む。
「……未来は一冊ではない」
母の言葉が、ようやく手触りを持って目の前に立ち上がる。
棚の一つに、自分の名があった。
《アリアドネ断罪》
《アリアドネ亡命》
《アリアドネ狂乱》
《アリアドネ死亡》
まるで役者の衣装箱だ。
どれでも好きな悪役を選べるように見える。
「ふざけてますわね」
その時、背後で紙の擦れる音がした。
振り返ると、リーゼロッテが立っていた。
白い灯りの下では、その可憐さがひどく薄く見える。代わりに、長く徹夜した編集者の影だけが濃い。
「ここまで来ると思っていました」
「死者を追うなんて、趣味が悪いですわ」
「死んだなら、なおさら回収しなければ」
リーゼロッテは視線を棚へ向ける。
「あなたは役を拒みすぎるのです。世界はそんなに贅沢ではありません。誰かが悪役を引き受けなければ、物語は濁る」
「濁って結構」
アリアドネは、自分の《死亡》初稿を抜き取った。
「澄みきった筋書きほど、人を雑に捨てますもの」
リーゼロッテが一歩進む。
「なら、何をする気ですか」
「盗みますの」
アリアドネは静かに答えた。
「わたくしを殺すために用意された初稿と、その次の主役に渡すはずだった脚本を」
棚の奥に、別の束が見えた。
表紙には新しい見出し。
《王太子ギルベルト、聖女リーゼロッテとの盟約を発表》
ああ、とアリアドネは理解する。
自分の死は終着点ではない。ただ次の配役を滑らかにする段取りだ。悪役が退場したあと、救済の顔をした新しい中心を据えるための。
彼女はその束も抱え込んだ。
「返してください」
初めて、リーゼロッテの声が熱を帯びた。
「それがなければ、王都はもっと酷く壊れます!」
「壊れるべきものまで守ろうとするから、あなたはいつも誰かを先に殺すのよ」
足音が近づく。見張りだ。
長くは持たない。
ヨハンが低く唸る。
「行け、お嬢さん」
アリアドネは初稿束を抱え、裏通路へ身を滑らせた。
背後でリーゼロッテが名を呼ぶ。その声だけが、初めて可憐ではなく、年相応の痛みに聞こえた。
逃走の途中、彼女は奪った束の最上段をめくる。
そこには明朝の差し替え指示が、もう赤で書き込まれていた。
【瓦版更新】
死んだはずの悪役令嬢、王都瓦版局へ侵入。
亡霊か、偽装か――次号、王都は再び主語を失う。
アリアドネは暗がりの中で、その見出しを見て笑った。
「ようやく少し、面白くなってきましたわね」
死んだ悪役令嬢は、今夜、自分を殺す脚本ごと盗んだのだから。




