第20話 悪役令嬢は死体を譲らない
【明日の王都瓦版】
公爵令嬢アリアドネ、王権冒涜の嫌疑で今夜審問。
罪状次第では、極刑もやむなしとの声――
人を殺すのに、刃は要らない。
必要なのは、先に読まれる死だけだ。
審問室は地下にあった。
湿った石壁。高い窓。やけに清潔な机。誰かを裁く場所というより、裁いたことを記録しやすい場所だった。
アリアドネは椅子へ座らされたまま、手首の縄を見下ろす。
固くもない。甘くもない。逃げる余地を残している拘束というものは、たいてい逃げたあとまで想定されている。
「ご気分はいかがですか、アリアドネ様」
現れたのは、リーゼロッテだった。
今度は祈る娘の顔ではなく、静かな実務者の顔をしている。
「最悪ですわ。椅子の趣味が悪いので」
「そういうところ、少し羨ましいです」
リーゼロッテは微笑む。
その笑みは優しいのに、どこか欠けていた。自分で削った人の表情だ。
「どうして、そこまで世界を複雑にしたがるのですか」
「逆ではなくて?」
アリアドネは首を傾げた。
「あなたが、ずいぶん怠惰に単純化したがるのでは」
リーゼロッテは否定しない。
「皆が全部を考え続けることなんてできません。だったら、誰かが筋を整えるしかない。怖がる人には怖がり方を、怒る人には怒り先を、善人でいたい人には悪役を」
その声は穏やかだった。
だからこそ恐ろしい。
「あなたは必要なのです、アリアドネ様」
リーゼロッテは続ける。
「聡明で、高慢で、美しく、孤立していて、少しだけ本当のことを言いすぎる。皆が安心して石を投げられる悪役として、これ以上なく出来がいい」
アリアドネは笑った。
「光栄ですこと」
「ですから、ここで終わってください」
机の上に、一枚の紙が置かれる。
【今夜の号外草稿】
悪役令嬢アリアドネ、審問ののち急死。
神罰か、自害か――王都に波紋。
「……まあ」
思ったより俗悪な本文だ、とアリアドネは感じた。
もっと美しく殺すかと思っていた。
「自害でも、急病でも、逃亡未遂でも構いません」
リーゼロッテの声は静かだ。
「あなたが“死んだことになる”だけで、多くが収まるのです。王太子殿下も、公爵も、王都も」
その瞬間、アリアドネの中で何かが冷たく澄んだ。
なるほど。
ここで自分の肉体ではなく、“死体役”だけを求められているのだ。
「わたくしが死ねば、皆さまは助かると?」
「少なくとも、今よりは」
「それは救済ではありませんわ」
アリアドネは、机上の草稿を指先で押さえた。
「責任の再配布です」
リーゼロッテの瞳がわずかに揺れる。
「……同じことです」
「違います」
アリアドネは初めて、真正面から彼女を見た。
「救済は、誰かを黙って燃料にしたあとで名乗るものではない」
沈黙。
遠くで鐘が鳴る。夕刻だ。
審問開始まで、もう長くない。
その時、扉の下から紙片が滑り込んだ。
看守は気づかない。リーゼロッテだけが一瞬、眉をひそめる。
アリアドネは足元で紙を踏み、指先で拾う。
たった一行。
――死を譲るな。白を使え。
ギルベルトの筆跡ではない。だが、王太子府の古参書記か、あるいはヨハンだろう。印章のない、しかしこちら側の文字。
アリアドネは目を伏せた。
白紙。空白。問い。読者を立ち止まらせる非常口。
「リーゼロッテ様」
「何でしょう」
「一つだけ、感謝いたしますわ」
「……何を」
「わたくしが何を奪えばいいか、はっきり教えてくださったことを」
リーゼロッテが異変に気づくより早く、廊下の向こうで騒ぎが起きた。
怒声。駆け足。紙束の落ちる音。
次いで、看守が扉を開けて叫ぶ。
「外で白紙が……! 審問の傍聴席に、白紙の紙束が投げ込まれて……!」
リーゼロッテが舌打ちに近い息を漏らす。
ああ、この人も焦れば人間らしい音を出すのだと、アリアドネは妙に冷静に思った。
混乱の隙に、縄がほどかれる。
いや、最初から半分切れていたのだ。内側から力を入れれば外れる程度に。
誰かが、逃げる前提で拘束した。
そして誰か別の誰かが、その前提をこちらへ寄せた。
「止めなさい!」
リーゼロッテの声が飛ぶ。
だが遅い。
アリアドネは机上の《急死草稿》を掴み、燭台へ近づけた。
紙は一瞬で燃え上がる。
「何を――」
「死ぬなら、本文ぐらい選びますわ」
炎の向こうでリーゼロッテの顔が歪む。
初めて、美しい善意の仮面ではなく、奪われた編集者の顔になった。
地下通路へ逃げ込んだ時、上ではすでに別の紙が走り始めていた。
白紙が傍聴席へ投げ込まれ、人々はそこへ勝手な恐怖と噂を刷り始める。審問は中断。証言は混線。誰が何を見たか、もう一つに畳めない。
その混乱の中で、たった一つだけ先に刷られた号外があった。
【瓦版更新】
公爵令嬢アリアドネ、審問後に死亡。
死因不明のまま、遺体は王宮管理下へ――
地下水路へ降りる階段の途中、アリアドネはその紙を受け取った。
誰が渡したのかは見えない。ただ濡れた石の冷たさと、遠ざかる鐘の音だけがある。
彼女は見出しを読み、ふっと笑った。
「結構」
死んだことにされたのなら、使い道はある。
「悪役令嬢の死体ぐらい、簡単には譲りませんわ」




