第14話 正義の父、崩れる
【号外】
父王襲撃未遂、王宮に緊張走る。
王太子殿下、流血の夜を前に忠誠を表明――
夜明け前の王宮は、いつもより音が少なかった。
騒ぎがないのではない。むしろ逆だ。人が本気で怯えている時ほど、廊下の足音は小さくなる。扉の開閉は慎重になり、囁き声は壁際に張りつき、誰も自分が最初の不用意な一言にならないよう息を潜める。
その静けさの中を、ギルベルトは一人で歩いていた。
父に礼を言われると思っていたわけではない。そんな甘い期待は、さすがにもうない。
だが、命を狙われた直後に《王太子弑逆》の記事の利用価値を量られるとは、彼も想像していなかった。
西塔の窓から流れ込んだ夜気は、まだ肌に残っている。にもかかわらず、胸の内側だけがやけに熱い。怒りと嫌悪と、どこかひどく幼い喪失感が、きれいに分かれず混じっていた。
「殿下」
回廊の角で、アリアドネが待っていた。
まるで最初からそこに置かれていた影のように静かだった。
「……寝ていなかったのか」
「殿下も」
「眠れると思うか」
「思いませんわ」
短い返答だった。慰める気も、励ます気もない。ただ事実だけを置く。今のギルベルトには、その冷たさがかえってありがたかった。
「君は、驚かないんだな」
「国王陛下のお言葉に?」
「ああ」
ギルベルトは手すりへ片手をつく。夜明け前の窓は青白く、王都の屋根がぼんやりと沈んで見えた。
「私は……父上は、もっと国家というものを信じているのだと思っていた」
「信じておられるのでしょう」
「ならなぜ、ああなる」
アリアドネは少しだけ首を傾けた。
「国家を信じることと、そのために人を記号として使うことは、両立しますもの」
「……君は、本当に残酷だ」
「ええ。ですが、殿下はいま初めて、その残酷さの内側へ立たされたのです」
ギルベルトは何も言えなかった。
新聞を信じ、正義を信じ、父が王であることを疑わなかった。だがその父は、息子の名に“父殺し”の見出しが刷られたことさえ材料として数える。そこには愛も信義もない。ただ、支配に使えるかどうかだけがある。
「ようやく同じ地面に降りてきましたね」
アリアドネの声は静かだった。
突き放しているのに、不思議と侮辱には聞こえない。
「見出しに使われる側の地面です」
ギルベルトは乾いた息を吐いた。
「まったく、君にだけは言われたくなかった」
「でしょうね」
「だが……否定もできない」
沈黙が落ちる。
遠くで、朝番の鐘が一つ鳴った。
「君はどうする」
ギルベルトが問う。
「父上は、今夜の件すら一つの筋にするつもりだ。教会も重臣も、いずれ“王太子は忠誠を証明した”だの“未遂を乗り越えて王家は結束した”だの、都合のよい記事に寄せるだろう」
「ええ」
「君なら、どう壊す」
アリアドネは少しだけ考え、それから言った。
「まだ壊しません」
「何?」
「いま陛下が欲しがっているのは、“乗り越えられた未遂”という記事です。ならばまず、それを書かせる。安心した人間は、次の見出しでよく燃えますから」
ぞっとするほど冷静な言い方だった。
だがギルベルトは、その冷静さの先にしかもう道がないことも理解し始めていた。
「君は、そんなふうにずっと戦ってきたのか」
「わたくしが戦ってきたのは、人ではありません」
アリアドネは窓の外を見た。
「人が安心するために欲しがる、分かりやすい物語です」
ギルベルトはその横顔を見つめる。
彼女は美しい。だがそれ以上に、いま初めて彼は、彼女がどれほど長く一人で同じものを見てきたのかを少しだけ想像した。
「……私に何をしろと言う」
「何もしないでください」
「は?」
「少なくとも、今は」
アリアドネは彼を見た。
「殿下が善意で動くたび、向こうはそれを記事に使います。ならばしばらくは、善意の発作を抑えてください」
「発作扱いか」
「ええ。かなり扱いづらいので」
ギルベルトは思わず、短く笑った。
それは苦笑だったが、昨夜までより少しだけ人間の笑いに近かった。
「分かった」
そして彼は、初めて自分から言った。
「君の敵を、私の敵にしてくれ」
言い終えた瞬間、彼自身がほんの少しだけ驚いた顔をした。命令ではない。取引でもない。ほとんど依頼に近い言い方だったからだ。
アリアドネはその意味を正確に量るみたいに、数秒だけ黙った。
「共犯をご希望ですか」
「できれば、もう少しましな呼び方にしてほしい」
「残念ながら、わたくしは嘘が嫌いなのです」
ギルベルトは肩を落とした。
けれど引き下がらない。
「それでもいい。私はもう、父上の用意した見出しの上でだけ立っていたくない」
その時、廊下の向こうから近衛が駆けてくる。
顔色が変わっていた。
「殿下! 近衛第三隊と第五隊の一部が、夜明け前の号外を巡って対立を始めています。隊内で“王太子殿下の忠誠は演技だ”という噂が出て――」
ギルベルトの表情が凍る。
記事はまだ終わっていない。父王弑逆の見出しは、未遂という事実だけで消えない。疑念の種として、今度は軍の中で芽を出し始めたのだ。
アリアドネは静かに呟いた。
「来ましたね。次の火種が」




