第11話 未来は一冊ではない
【明日の王都瓦版】
婚約凍結。王太子殿下、悪役令嬢との距離を正式に置く。
王都、安堵と憶測の声――なお崩落事件の真相は調査中。
母の筆跡は、意外なほど几帳面だった。
縦にも横にも癖が少ない。
派手な装飾も、気取った含みもない。
なのに、一度読み始めると奇妙に目が逸れない。必要な言葉だけを、必要な位置へ置ける人の文章だった。
アリアドネは朝からずっと、そのノートを読んでいた。
外では婚約凍結の布告に対する噂が王都を巡っている。
《王太子、ついに悪女を見限る》。
《いや、断罪しきれず手を焼いている》。
《本当はまだ庇っているらしい》。
見出しが一つ走れば、人はその余白を好き勝手に埋める。
だが今は、そんな外の騒音より、手元の頁のほうが重大だった。
記事は真実ではない。
より正確には、真実らしさの配列である。
人は事実そのものより、先に渡された順序へ従う。だから記事を書く者は、出来事を起こす者に近い。
アリアドネはゆっくりと息を吐いた。
「……同じことを考えていたのね」
母は王立瓦版局の校正官だった。
それは幼い頃に父から一度だけ聞かされたきり、屋敷の中で話題にされたことはほとんどない。病弱だった、静かな人だった、早く亡くなった。母について語られるのは、その程度だった。
だがこのノートは違う。
静かどころではない。
ひどく鋭い。
頁をめくる。
未来は一冊ではない。草稿があり、訂正版があり、没稿があり、誰にも配られない版がある。
瓦版局が扱っているのは運命ではなく、運命のうち“人々に最も信じられやすい形”に整えられた草稿に過ぎない。
そこまで読んだ時、アリアドネの喉の奥がわずかに痛んだ。
自分が読まされてきた《明日の瓦版》は、未来の絶対記録ではない。
もっと俗で、もっと人間的で、もっと腹立たしいものだ。
そしてだからこそ、ずらせる。
「お嬢様」
クララが、そっと茶を差し替える。
「そのノート、やっぱり奥様のものなんですか」
「ええ」
「……何て書いてあるんです?」
アリアドネは一瞬だけ答えかけて、やめた。
未来の話を具体で口にする時ほどではないが、瓦版局の仕組みを核心に近い形で説明しようとすると、喉がわずかに焼ける。母もきっと、同じ制約を知っていたのだろう。
「人は、見たいようにしか読まないって」
「うわあ……それは、なんか……はい、もう、すごくその通りです」
クララはうんざりした顔で頷いた。
「今だって外では、お嬢様が婚約凍結で泣き崩れてることにしたい人と、殿下が未練たらしく囲ってることにしたい人で、勝手に話が二つ三つできてますし」
「便利ね。本人が何もしていなくても、物語が自動で増えるのだから」
「ぜんぜん便利じゃないです……お嬢様にとっては……」
クララは小さく肩を落とした。
アリアドネは茶をひと口飲み、もう一度ノートへ目を戻す。
中盤以降は、校正記号のような図が増えていた。
記事A。記事B。
配布先。差し替え時刻。
誰にどの順番で見出しが届くと、どの噂が膨らみやすいか。
これではまるで、未来予知の覚え書きではない。
群衆心理の設計図だ。
「奥様って……その、やっぱり、すごい人だったんですね」
クララの呟きに、アリアドネは少しだけ目を伏せた。
「ええ。少なくとも、わたくしより先に、これを恐れていた人だったのでしょうね」
最後のほうの頁は、ところどころ破られていた。
とくに終盤。
何か重要な結論が書かれていたであろう箇所だけが、意図的に切り取られている。
その切断面を指でなぞった時、ノックの音がした。
執事が入室し、短く告げる。
「王太子殿下がお見えです。非公式に、とのことですが」
アリアドネはノートを閉じた。
「お通しして」
☆
ギルベルトは今日、護衛も最小限だった。
公式の訪問ではない以上、王都へ向けて大きな意味を持つ姿では現れられない。
それでも彼は王太子で、その立ち姿には否応なく公的な輪郭が残る。
なのに今日は、その輪郭の一部が少しだけ欠けて見えた。
「婚約凍結、おめでとうございますとでも申し上げるべきかしら」
アリアドネが言うと、ギルベルトは眉を寄せた。
「皮肉にしても出来が悪い」
「ええ。あまりに政治的でしたもの」
ギルベルトは椅子に座る前に、部屋の中をひとわたり見た。
盗み聞きの気配を確認する癖がついたのだろう。以前の彼なら、そんなことはしなかった。
「父上は、朝刊が割れたことを怒っていた」
「でしょうね」
「だが、記事の中身そのものには驚いていなかった」
アリアドネは答えず、ただ先を促すように見た。
「むしろ……利用価値を見ていた」
その声音には、疲労と嫌悪が混じっていた。
「王都には一つの筋書きが要ると、そう言われた」
「正直ですこと」
「君は驚かないんだな」
「権力は、たいてい真実より先に便利さを見るものですわ」
ギルベルトは苦く笑った。
笑った、というより、笑うしかなかったような顔だ。
「君のそういうところは本当に腹が立つ」
「よく言われます」
短い沈黙のあと、彼の視線が机上のノートへ落ちる。
「それは?」
「母の遺した校正ノートです」
「校正?」
「ええ。王立瓦版局で働いていたの」
ギルベルトは明らかに意外そうだった。
「聞いたことがない」
「表で大きく語るには不都合だったのでしょうね。未来を扱う機関に女がいて、しかも校正をしていたなんて」
彼は少しだけ身を乗り出す。
「何が書いてある」
アリアドネは少し迷い、それからノートを開いて一節だけ見せた。
記事は真実ではなく、真実らしさの配列に過ぎない。
ギルベルトはそれを読み、しばらく何も言わなかった。
「……まるで、君の言い方だ」
「逆でしょう。たぶん、わたくしのほうが母に似てしまったのよ」
彼は頁を追うように見ていたが、ふと切り取られた終盤に気づいて眉をひそめた。
「ここだけ欠けている」
「ええ。いちばん肝心なところなのでしょうね」
「誰が持ち去った」
「分かりません」
アリアドネは指先で切断面をなぞる。
「でも、破られたということは、そこに価値があったということです」
ギルベルトはしばらくそのまま黙り、それから低く言った。
「教会が動く」
「……え?」
「今朝、父上との話のあとで大聖堂から使いが来た。崩落事件と婚約凍結、そして朝刊混乱を受けて、建国祭の場で“王都の不安を鎮める声明”を出したいそうだ」
アリアドネの目が細くなる。
「声明、ね」
「言い換えれば儀式だ。誰が正しく、誰が異端かを見せるための」
「便利ですものね。神意を借りれば、見出しに権威が増す」
「君は来るなと言いたいが、そうもいかない」
「ええ。たぶん、わたくしがいないと成立しない舞台でしょうから」
ギルベルトはその言葉に反論しなかった。
もう彼も分かっている。
アリアドネは被害者であると同時に、王都がいま最も読みたがっている“役柄”でもあるのだ。
「建国祭の壇上で、彼らは君を聖女にするか、魔女にするか、どちらかに固定したがるだろう」
「つまり、わたくしはまた便利な看板にされるわけですね」
「……そうだ」
アリアドネはそこで、ふと微笑んだ。
「なら、好都合ですわ」
「何が」
「大勢の前でやるなら、大勢の前で壊せますもの」
ギルベルトは一瞬だけ目を見張り、それから額を押さえた。
「本当に君は……」
「何でしょう」
「どうしてそう、破滅的な方向へためらいがない」
「わたくしの破滅は、ずっと向こうが予約していたものですもの」
アリアドネは母のノートを閉じる。
「なら少しくらい、こちらの都合で使い回しても罰は当たらないでしょう」
その言葉を聞いた時、ギルベルトは初めて、ほんのわずかに笑った。
乾いた笑いではない。
まだ不器用だが、自分の意思で浮かべた顔だった。
そして帰り際、彼は扉の前で一度だけ立ち止まる。
「アリアドネ」
「はい」
「私は、まだ君を信じてはいない」
「結構です」
「だが」
彼は振り返らないまま言った。
「新聞よりは、君のほうを疑う価値があると思い始めている」
扉が閉まる。
アリアドネはしばらくその言葉を反芻し、それから机上のノートへ視線を落とした。
切り取られた最後の頁。
建国祭の儀式。
そして、見出しと神意を結びつけたがる王都。
舞台は、大きくなりつつあった。




