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バッテリー  作者: 平木明日香
第1章 明日、空が晴れたら
2/3

プロローグ


挿絵(By みてみん)





 ねえ。


 もし「明日」があるなら、何がしたい?


 そんなふうに誰かへ尋ねることが、どれほど残酷なことなのか、私はあの日まで本当の意味では知らなかった。


 明日なんて、当たり前に来るものだと思っていた。朝になれば目が覚めて、寝癖のついた髪を雑に結んで制服の袖に腕を通し、昨日の続きみたいな顔をして学校へ行く。廊下では誰かがくだらないことで笑っていて、教室には少し湿った夏の匂いが残っていて、グラウンドの方からは野球部の掛け声が聞こえてくる。そういう何でもない日々が途切れることなく続いていくのだと、私は何の疑いもなく信じていた。


 その日、雨が降った。


 ただの雨じゃなかった。


 街の音を丸ごと飲み込んでしまうような雨だった。


 窓ガラスを叩く水の音は、誰かが外側から何度も何度も拳を打ちつけているみたいで、道路を走る車のライトは濁った水の向こうでぼんやり滲み、家の前の側溝は早い時間から茶色い水を吐き出していた。テレビでは聞き慣れないほど重たい声でアナウンサーが注意を呼びかけていて、画面の端には赤や紫に塗られた雨雲の地図が何度も映し出されていた。


 観測史上最大の豪雨。


 その言葉が何度も繰り返されるたびに、私は現実感のない不安だけを胸の奥に積み重ねていた。


 外に出ちゃだめだよ。


 母がそう言った。


 わかってる、と私は答えた。


 本当にわかっていたのかどうかは、今でもわからない。


 雨はひどかった。だけど家の中にいる私にとって、それはまだ「外で起きていること」だった。ニュースの中の出来事で、スマホに届く警報で、窓の向こうの景色で、誰かの家の前を流れていく水でしかなかった。


 その夜、八時を少し過ぎた頃だった。


 スマホが鳴った。


 prrrrrrrr


 机の上で震えるその音は、雨音に混ざってしまいそうなほど頼りなくて、それでも私の胸だけをはっきりと揺らした。


 画面を見ると、そこには「だいき」と表示されていた。


 漢字じゃなくて、ひらがなで登録した名前。


 渋谷大輝。


 幼馴染で同級生で、ずっと近くにいた人。


 そしてその日の朝から、私は彼と喧嘩をしていた。


 喧嘩と呼ぶには、あまりにも一方的だったのかもしれない。大輝が何かを言おうとして、私はそれを聞かないまま背を向けた。いつものように笑ってごまかそうとする彼の顔が、その日はなぜか無性に腹立たしくて、私は彼が言い切る前に「もういい」と言ってしまった。


 何が「もういい」だったのか。


 本当は何もよくなかったくせに。


 スマホは鳴り続けていた。


 出ればよかった。


 ただそれだけのことだった。


 指を伸ばして、通話ボタンを押して、「もしもし」と言えばよかった。怒っているなら怒っている声のままでもよかったし、泣きそうなら泣きそうな声のままでもよかった。どうせ大輝は、私のそういう声を聞き慣れていた。小さい頃からずっと、私が不機嫌なときも、意地を張っているときも、素直になれないときも、彼は呆れたように笑って「ひかりはめんどくさいな」と言う人だった。


 なのに私は出なかった。


 出られなかったんじゃない。


 出なかった。


 謝るのが悔しかったから。


 大輝の声を聞いた瞬間、自分の方が悪かったと認めてしまいそうだったから。


 それに、きっとまた彼は笑って言うのだと思った。


 なんでもない。


 大丈夫。


 平気だって。


 そう言って、肝心なことを隠すのだと思った。


 prrrrrrrr


 着信音は、やがて途切れた。


 画面には不在着信の文字が残った。


 十九時十二分。


 たった一つの数字の並びが、そのあと何度も何度も私の前に現れることになるなんて、そのときの私は知らなかった。


 ねえ、大輝。


 どうして私は出なかったんだろうね。


 あんたはいつも言っていた。


「チャンスは一度きりだぞ、ひかり」


 そんなふうに。


 朝練の前、まだ空が青くなりきらない時間に、グラウンドの土を踏みながら。試合の前、やけに真剣な顔でグローブの紐を結び直しながら。負けた日の帰り道、自転車を押しながら、悔しさを隠しきれない声で。


「次があるって思ったら、たぶん一生つかめない。今しかないって思ってやるしかないんだよ」


 向こう見ずで無鉄砲で、根拠だけがいつも足りない。


 私はそんな大輝の言葉に、何度も首を傾げた。


 そんなに急がなくたっていいじゃん。


 そんなに必死にならなくたっていいじゃん。


 野球なんて、たかが部活じゃん。


 そう言ったこともあった。


 でも本当は、知っていた。


 彼にとって野球は、たかが部活なんかじゃなかった。


 大輝がボールを握るときの横顔は、いつも少しだけ大人びて見えた。普段はくだらないことで笑って、コンビニの新作アイスに本気で喜んで、テスト前には私のノートを当然みたいに借りに来るくせに、マウンドに立つときだけは、誰も入れない場所に一人で立っているように見えた。


 その背中が好きだった。


 悔しいけど、たぶんずっと。


 だからこそ、私は腹が立っていたのかもしれない。


 あんなに必死に追いかけていたものを、どうして急に手放すみたいな顔をするのか。どうして私には何も言わないのか。どうして笑ってごまかすのか。どうして、私だけが置いていかれるみたいな気持ちにならなきゃいけないのか。


 雨は降り続いていた。


 スマホはもう鳴らなかった。


 私はその夜、何度も画面を見た。


 折り返そうと思った。


 でも、そのたびに指が止まった。


 今さら何を言えばいいのかわからなかった。ごめん、と言えば済むことなのに、その「ごめん」がどうしても喉の奥で固まってしまった。怒っているのは私のはずなのに、電話をかけ直すことで、まるで私が彼を必要としているみたいになるのが嫌だった。


 本当に、くだらない。


 そんなくだらない意地が、人の一生の終わりに結びついてしまうことがあるなんて、私は知らなかった。


 大輝がいないと彼のお母さんから連絡が来たのは、夜がもっと深くなってからだった。


 雨の音が少し弱まった気がしたその瞬間、家の電話が鳴って、母が受話器を取った。母の声が急に低くなり、私の名前を呼ぶ前にこちらを見た。


 大輝が帰ってきていない。


 連絡がつかない。


 外は危ないから、ひかりちゃんは家にいて。


 そう言われた。


 私は何も答えられなかった。


 不在着信の画面を開いた。


 十九時十二分。


 そこに残っている名前を見て、胸の奥が冷たくなった。


 大輝はどこにいたのだろう。


 どうして私に電話をかけたのだろう。


 助けを求めていたのか。


 それとも、ただ何かを伝えたかったのか。


 私はその答えを知らないまま、長い夜を越えた。


 眠れなかった。


 何度もスマホを握った。


 何度も着信履歴を見た。


 何度も、何度も、かけ直した。


 けれど、呼び出し音は鳴らなかった。


 つながることのない電話ほど静かで、残酷なものはなかった。


 翌朝、川べりの近くで大輝が見つかった。


 それからのことは、ところどころしか覚えていない。


 母が私の肩を抱いたこと。


 玄関先で父が誰かと電話していたこと。


 外の空が、嘘みたいに明るかったこと。


 テレビの中では、茶色く濁った水に沈んだ町が映されていて、見慣れた橋の欄干が半分ほど水に隠れていたこと。


 そして、私が何度も「うそ」と言ったこと。


 誰に向かって言ったのかもわからない。


 自分に言い聞かせていたのかもしれない。


 うそ。


 大輝が死ぬわけない。


 あんなにうるさくて、あんなにしつこくて、あんなに勝手に人の生活へ入り込んできた人が、たった一晩の雨でいなくなるわけがない。


 目を覚ましてよ。


 いつもみたいに笑ってよ。


 なんでもないって言ってよ。


 雨すごかったな、って。


 ちょっとやばかったわ、って。


 そうやって、いつもの調子で頭をかきながら笑ってよ。


 なんで寝てるの。


 なんで返事をしてくれないの。


 なんで、私が握った手を握り返してくれないの。


 最後に触れた大輝の手は、信じられないほど冷たかった。


 小さい頃、キャッチボールをしていたときの手とは違っていた。昔はもっと柔らかくて、私と大して変わらない手だったのに、高校三年の夏の彼の手は、ゴツゴツしていて、硬くて、指の付け根には潰れた豆の跡がいくつも残っていた。


 その手が、何も言わずに教えてくれた。


 大輝は本当は頑張っていた。


 誰にも見えないところで、ちゃんと苦しんで、ちゃんと迷って、それでも何とかしようとしていた。


 私は知っているつもりで、何も知らなかった。


 近くにいたのに。


 幼馴染だったのに。


 誰よりもわかっているような顔をしていたのに。


 時間を戻せるなら、私はあの電話に出たい。


 そして言いたい。


 大丈夫だよ。


 なんとかなるよ。


 辞めたっていいよ。


 逃げたっていいよ。


 あんたが野球を続けても、続けなくても、私はあんたを軽蔑したりしないよ。


 そんな簡単なことを、どうして生きているうちに言えなかったのだろう。



 彼の葬式の日、私たち同級生は、着慣れない喪服に身を包んで参列した。


 制服で来ている子もいた。黒いネクタイをぎこちなく締めた男子たちの顔は、いつもよりずっと幼く見えたし、女子たちは泣き腫らした目元を隠すように、何度もハンカチを押し当てていた。誰も大きな声を出さなかった。普段なら騒がしいはずの同級生たちが、みんな借り物の沈黙をまとっていて、その静けさがかえって現実味を奪っていた。


 会場には、思っていたよりずっと多くの人が来ていた。


 最初は家族葬で済ませたいと聞いていた。


 でも、大輝を知る人は多すぎた。


 野球部の仲間、顧問の先生、中学時代のチームメイト、近所のおじさんおばさん、小学校の頃の担任、よく通っていたバッティングセンターの店長まで来ていた。誰もが祭壇の前で足を止め、写真の中の大輝を見上げ、言葉を失っていた。


 祭壇に飾られた遺影は、中学時代の写真だった。


 正面からきれいに写っている写真があまりなかったから、と聞いた。大輝は写真を撮られるのが苦手だった。ピースをしろと言われると変な顔をするし、真面目に立てと言われるとわざと目を逸らす。だから、遺影に選ばれたのは、彼が一番気に入っていた写真だった。


 私はその写真をよく知っている。


 夏のグラウンドで、泥だらけのユニフォームのまま笑っている大輝。


 その隣には、彼がずっと憧れていた人が写っていた。


 大輝に初めて本気で野球を教えてくれた人。


 彼が投手になりたいと言い出したきっかけの人。


 写真の中の大輝は、まだ少年の顔をしていた。けれど、その目だけは今と同じで、どこか遠くをまっすぐ見ていた。


 会場の入り口には、「渋谷家」と書かれた札が立っていた。


 その文字を見た瞬間、私は息ができなくなった。


 渋谷家。


 その言葉は、子どもの頃からあまりにも身近だった。


 学校帰りに寄った家。


 麦茶を出してもらった家。


 大輝のお母さんに「ひかりちゃん、夕飯食べていく?」と何度も聞かれた家。


 庭先に古いバットが立てかけてあって、玄関にはいつも泥のついたスパイクが置かれていた家。


 そこに今、喪主の名前として「渋谷家」と書かれている。


 意味がわからなかった。


 意味なんて、わかりたくなかった。


 焼香の順番が近づいてきたとき、私は足元が急に頼りなくなるのを感じた。


 線香の匂い。


 読経の声。


 誰かのすすり泣く音。


 祭壇の花。


 大輝の写真。


 全部が一度に押し寄せてきて、私はその場に立っていられなくなった。


 ごめん。


 心の中で誰に謝ったのかもわからないまま、私は会場を出た。


 廊下は嘘みたいに静かだった。


 外へ出ると、雨は上がっていた。


 雨上がりの街は、やけに明るかった。


 空には薄い雲が残っていて、濡れたアスファルトが白く光っていた。道路の端には泥が溜まり、折れた枝や葉っぱが排水溝の周りに貼りついていた。町は確かに傷ついているのに、それでも夏の匂いだけはしぶとく残っていて、湿った空気が肌にまとわりついた。


 私は歩いた。


 どこへ行くつもりだったのかはわからない。


 ただ、あの場所にはいられなかった。


 大輝がいないことをみんなが共有している場所に、私はこれ以上立っていられなかった。


 駅へ向かったのは、たぶん偶然だった。


 いや、偶然じゃないのかもしれない。


 私たちは昔から、何かあると駅に行った。


 部活帰り、試合帰り、喧嘩した日、仲直りした日、夏祭りのあと、受験の合格発表の日。駅のホームには、私たちの時間がいくつも落ちていた。大輝はよく、電車に乗るわけでもないのにホームのベンチに座って、通り過ぎる列車を眺めていた。


「どっか遠く行きてえな」


 そう言うくせに、実際にはどこへも行かなかった。


 行きたい場所なんて、たぶん彼にもなかった。


 ただ、ここではないどこかを想像するのが好きだったのだと思う。


 私は駅の階段を駆け上がった。


 息が切れた。


 喪服の靴は走るためのものではなくて、足の甲が痛かった。けれど止まる気にはなれなかった。止まったら、追いつかれてしまう気がした。葬儀場の匂いに。線香の煙に。大輝のいない現実に。


 ハアッ、ハアッと、自分の呼吸だけが耳の奥で大きく響いた。


 ホームに上がると、人はほとんどいなかった。


 先日の豪雨の影響で、一部の線路は運行を取り止めていた。電光掲示板には運休を知らせる文字が流れていて、いつもなら制服姿の高校生や買い物帰りの人でにぎわう時間帯なのに、ホームはひどく広く、冷たく、余白ばかりが目立っていた。


 駅のホームには雨の匂いが残っていた。


 濡れたコンクリート。


 錆びたレール。


 夏草。


 遠くの川から流れてきたような泥の匂い。


 私はベンチに座った。


 電車を待っていたわけではなかった。


 どこかへ行きたいとは思っていたけれど、どこへ行きたいのかはわからなかった。ただ、家にも葬儀場にも学校にも戻りたくなくて、戻りたくない場所を一つずつ消していったら、ここに来てしまっただけだった。


「いくら待っていても、二番線は本日運休ですよ」


 不意に声がした。


 顔を上げると、少し離れたところに駅員が立っていた。


 制服を着て、制帽をかぶっている。見た目だけなら普通の駅員だった。けれど、その人の立ち方はどこか不自然だった。ホームの端にいるのに、そこだけ影が薄いような、逆にそこだけが妙にはっきりしているような、うまく言えない違和感があった。


「……知ってます」


 私は短く答えた。


 言われなくてもわかっていた。


 電車を待っているわけじゃない。


 ここに来たのは、ただ、なんとなくで。


「何をお探しですか?」


「……はい?」


「いえ、ここに来る人は皆、いつも何かを探していますから」


 何を言っているのだろう。


 駅員にしては、やけに馴れ馴れしい。


 というか、普通こんなふうに話しかけてくるだろうか。運休のホームに喪服の高校生が一人で座っていたら、心配して声をかけることくらいはあるかもしれない。でも、この人の声は心配というより、最初から私がここへ来ることを知っていたみたいに落ち着いていた。


「……あの、何か用ですか」


 できるだけ普通に言ったつもりだった。


 けれど、自分の声はひどく乾いていた。


 今はそっとしておいてほしかった。誰かと話せる状態じゃなかった。運休だからって、ベンチに座るくらい別にいいはずだ。電車を待っているわけじゃない。誰かに迷惑をかけているわけでもない。だから、放っておいてほしい。


 そう思った瞬間、その駅員は言った。


「次に来る電車に乗れば、もう一度彼に会えますよ」


 音が消えた。


 雨上がりの風も、遠くの車の音も、電光掲示板のかすかな機械音も、全部が一瞬だけ遠ざかった。


 私は駅員の顔を見た。


「……今、なんて」


「次に来る電車に乗れば、もう一度彼に会えます」


 同じ言葉だった。


 聞き間違いではなかった。


 けれど、意味がわからなかった。


 電車が来る?


 でも二番線は運休のはずで。


 それに、この人は今、彼と言った。


 誰のことを言っているのか、聞かなくてもわかってしまう自分が怖かった。


「ここは三番線のホームです。そして私は、その駅員です」


「三番線……?」


 私は思わず周囲を見回した。


 どう見ても、ここは二番線だった。見慣れたホーム。見慣れたベンチ。見慣れた黄色い点字ブロック。駅名標だって、いつもと同じ場所にある。


「でも、三番線なんてありません。この駅は二番線までしか……」


「普段は、そうですね」


「普段は?」


「三番線の電車は、毎日走っているわけではありません。必要な人の前にだけ、必要なときに現れます。あなたは幸運なお客様です。乗車すれば、の話ですが」


 何を言っているのか、やっぱりわからなかった。


 駅員の冗談にしては悪趣味すぎる。


 葬式帰りの高校生をからかうような内容じゃない。


 でも、その人の顔にはからかうような色がなかった。むしろあまりにも静かで、こちらが怒るきっかけさえ見つけられないほどだった。


「もし、雨が降らなかったら」


 駅員は、私の胸の奥を見透かすように言った。


「そう思っていませんか?」


 息が止まった。


「……」


「もし雨が降らなかったら。もし電話に出ていたら。もし喧嘩をしていなかったら。もし彼を引き止めていたら。人は取り返しのつかないものを失うと、ありもしない分岐点をいくつも作って、そのひとつひとつに自分を置き去りにします」


「やめてください」


 思ったより強い声が出た。


 駅員は黙った。


 私は膝の上で拳を握った。


 やめてほしかった。


 知らない人に、大輝のことを言われたくなかった。


 私の後悔を、まるでありふれたものみたいに扱われたくなかった。


「あなたに何がわかるんですか」


「わかりますよ」


「わかるわけない」


「彼はもう戻ってこない。それは、あなたも知っているでしょう?」


 その一言で、怒りの形をしていたものが崩れた。


 彼はもう戻ってこない。


 みんなが遠回しに言っていたことを、この人はまっすぐ言った。


 大輝は死んだ。


 もう隣にはいない。


 もう電話はかかってこない。


 もうグラウンドで投げることもない。


 もう私の名前を呼ばない。


 わかっている。


 わかっているのに、誰かに言われると、体の真ん中を雑に切り開かれたように痛かった。


「……知ってるんですか」


 私はようやくそれだけを言った。


「何をです?」


「大輝のこと」


「ええ。知っています」


「なんで」


「駅員ですから」


「意味わかんない」


「そうでしょうね」


 駅員は少しだけ笑った。


 その笑みは優しいようで、どこか冷たかった。雨上がりの朝の空気みたいに澄んでいるのに、触れると体温を奪われるような笑みだった。


「昨日は、災難でしたね」


「……災難って」


「川が溢れました。土砂崩れも起きました。家も何軒か流されました。たくさんの人が、行くはずだった明日にたどり着けなかった」


 駅員の声は淡々としていた。


 けれど、その淡々とした響きのせいで、言葉が余計に重く聞こえた。


 昨日の雨は、全国ニュースになっていた。


 西日本を中心に、広い範囲で発生した集中豪雨。テレビでは、台風と前線の影響だと言っていた。午後から雨脚は急激に強まり、夕方には大雨特別警報が出され、夜にかけていくつもの県へ警報が広がっていった。


 隣町では今も救助活動が続いている。


 川の水位が上がり、堤防が決壊し、住宅や病院や飲食店が並ぶ中心部が広い範囲で浸水した。私たちがよく自転車で通った橋も、テレビの映像では茶色い水に飲まれていた。


「彼が昨日どこにいたか、あなたは知っていたのですか?」


「大輝が……?」


「ええ」


「知りません。何も」


 そう答えた。


 でも、本当は少しだけ知っている。


 大輝は川べりの近くで見つかった。


 彼がどうしてそこにいたのかは、まだ誰もはっきりとは言わなかった。避難の途中だったのか、誰かを探していたのか、それとも別の理由があったのか。大人たちは私の前で言葉を選び、肝心なところを曖昧にした。


 けれど、ひとつだけ確かなことがある。


 大輝はあの夜、私に電話をかけた。


 十九時十二分。


 その時、彼はどこにいたのだろう。


 何を見ていたのだろう。


 雨の音はどれくらい大きかったのだろう。


 怖かったのだろうか。


 それとも、いつものように強がっていたのだろうか。


「彼から電話は?」


 駅員が尋ねた。


「……電話?」


「あなたのところに、連絡は来ていませんか?」


 すぐには答えられなかった。


 喉の奥に、固いものが詰まったようだった。


 電話は来ていた。


 私は出なかった。


 それだけのことを言うのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。


「来ました」


 小さく答えた。


「出ましたか?」


 私は首を横に振った。


「……出てません」


「なぜ?」


「喧嘩、してたから」


「それだけですか?」


 駅員の声は責めているわけではなかった。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


「それだけ、です」


 私は嘘をついた。


 本当は、それだけじゃない。


 意地を張っていた。


 大輝から謝ってくるのを待っていた。


 自分が大切にされていることを、確認したかった。


 私が怒っていることに、彼がちゃんと気づいてくれることを期待していた。


 それを言葉にすると、あまりにも幼稚で、あまりにも醜かった。


「彼のスマホは、まだ見つかっていないようですね」


「……なんでそんなことまで知ってるんですか」


「駅員ですから」


「だから、それ意味わかんないって言ってるじゃないですか」


 声が震えた。


 怒っているのか、怖いのか、自分でもわからなかった。


 この人は何者なのか。


 なぜ大輝のことを知っているのか。


 なぜ私の後悔を、こんなにも正確になぞるのか。


「もうじき、電車が来ます」


 駅員は答えず、線路の向こうを見た。


「電車が?」


「ええ。次はいつ来るかわかりません。何せ、普段は通っていませんから」


 ホームには誰もいなかった。


 駅舎の中にも、人の気配はなかった。


 改札の向こうで誰かが歩く音も、券売機の操作音も、構内放送も聞こえない。さっきまでどこか遠くに感じていた街のざわめきさえ、いつの間にか薄れていた。


 風が吹いた。


 雨上がりの湿った風だった。


 頬に触れて、首筋を通り、喪服の裾をかすかに揺らした。


「風はいつ吹くか、ご存知ですか?」


「……はい?」


「不思議に思ったことはありませんか。どこから風はやってくるのか。どこへ行くのか。目に見えないのに、確かにここにあるものを、人はどうして当たり前のように信じられるのか」


 私は答えなかった。


 そんなこと、考えたこともない。


 風は吹くものだ。


 雨は降るものだ。


 明日は来るものだ。


 大輝はいるものだ。


 そう思っていた。


「もしかしたら、もう彼には会えないかもしれません」


 駅員は静かに続けた。


「しかし、こうして風は吹いています。三番線の電車が来るように」


 そのときだった。


 どこか遠くで、かすかな音がした。


 最初は風が看板を揺らした音かと思った。


 けれど違った。


 ガタン、ゴトン。


 レールの継ぎ目を踏むような、規則正しい音。


 線路の向こうを見る。


 まっすぐ伸びたレールの先で、夏の陽炎が揺れていた。線路脇に並ぶ電信柱が、濡れた草むらの緑を切り分けるように続いている。その奥から、何かが近づいてくる。


 アナウンスが鳴った。


 まもなく、三番のりばに、電車がまいります。


 危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください。


 聞き慣れた駅の声のはずなのに、どこか違っていた。


 音が古い。


 遠い。


 まるで、ずっと昔に録音された声を、水の底から聞いているみたいだった。


「三番……」


 私は思わず呟いた。


 目の前のホームは、さっきまで二番線だったはずだ。


 けれど、駅名標の下にある小さな表示板には、いつの間にか「三番のりば」と書かれていた。


 ありえない。


 そんなこと、あるわけがない。


 でも、電車は確かに来ていた。


 見たことのない車両だった。


 古いようで新しく、新しいようでひどく懐かしい。車体は雨に濡れたような鈍い銀色で、窓には夕方の空がぼんやり映っていた。行き先表示は消えている。運転席には誰もいないように見えた。


 それなのに、電車は静かにホームへ滑り込んできた。


 誰も降りてこない。


 誰も乗っていない。


 ドアの向こうには、色褪せた紺色のバケットシートが並んでいた。床は少し古びた木目調で、吊り革だけが妙に白く、まだ誰にも触れられていないみたいに揺れていた。


 プシューッと音を立てて、ドアが開いた。


 駅員が私を見た。


「どうされますか?」


 その声は、耳の奥に直接届いた。


 どうする。


 そんなことを聞かれても、わからなかった。


 私は葬儀場から逃げてきた。


 ここではないどこかへ行きたかった。


 でも、本当に行きたかった場所なんて、一つしかなかったのかもしれない。


 大輝のいる場所。


 大輝に会える場所。


 もう一度、あの声が聞ける場所。


 馬鹿みたいだと思った。


 そんなこと、あるわけがない。


 死んだ人間に会える電車なんて、あるわけがない。


 運転手のいない電車が、存在しない三番線に来るなんて、現実であるはずがない。


 私はきっと疲れている。


 眠れていないから。


 泣きすぎたから。


 大輝が死んだことを受け止められなくて、頭がおかしくなっているだけなのだ。


「まさか、夢でも見てます?」


 私はそう言った。


 駅員は答えた。


「さあ。それはどうでしょう」


「否定してくれないんですね」


「夢であってほしいのですか?」


 その問いに、私は黙った。


 夢ならいい。


 全部、夢ならいい。


 目が覚めたら、雨はまだ降る前で、私はスマホを握っていて、大輝からの着信が鳴っていて、今度こそ通話ボタンを押せる。そんな都合のいい夢なら、私はどれだけでも見ていたかった。


 でも、目の前の電車はあまりにも現実だった。


 開いたドアの隙間から、冷たい空気が流れてくる。


 車内には雨の匂いがした。


 それから、土の匂いと、少しだけ汗の匂い。


 グラウンドの匂い。


 私は胸の奥が震えるのを感じた。


「この電車は、どこに?」


 そう尋ねたのは、行き先を知りたかったからではなかった。


 何かを聞かなければ、このまま吸い込まれるように乗ってしまいそうだったからだ。


 駅員は少しだけ視線を伏せ、それから言った。


「どこに続いているかは、誰にもわかりません。ただ、彼が、そしてあなたが行きたいと思う場所へ続いている可能性はあります」


「可能性って……」


「約束はできません。三番線は、願いを叶える場所ではありませんから」


「じゃあ、何なんですか」


「乗り遅れた人のためのホームです」


 乗り遅れた人。


 その言葉が、私の中に静かに沈んだ。


 私は乗り遅れたのだろうか。


 大輝からの電話に。


 謝る機会に。


 彼の本音を聞く時間に。


 最後の一球に。


「帰ってこられるんですか」


 私がそう聞くと、駅員は初めて少しだけ表情を変えた。


「帰りの電車が、いつあなたの前に現れるかはわかりません」


「帰れないかもしれないってことですか」


「その可能性もあります」


「それ、普通に危ないじゃないですか」


「はい」


「止めないんですか」


「止めません。けれど、勧めもしません。乗るかどうかを決めるのは、いつだってお客様です」


 電車のドアは開いたままだった。


 発車を急かすベルは鳴らない。


 誰も私を押さない。


 誰も私に乗れと言わない。


 それがかえって苦しかった。


 選ぶのは私だ。


 あの日、電話に出なかったのも私。


 今日、この電車に乗るかどうかを決めるのも私。


 大輝なら、どうしただろう。


 考えるまでもなかった。


 あいつなら乗る。


 たぶん、少しも迷わずに。


 それであとから「いや、普通乗るだろ」と笑う。


 無鉄砲で馬鹿で、前しか見ていなくて、でもそういうところに何度も救われてきた。


 チャンスは一度きりだぞ、ひかり。


 大輝の声が聞こえた気がした。


 私は立ち上がった。


 膝が震えていた。


 喪服のスカートの裾を握り、ホームの黄色い点字ブロックを越えないように一歩ずつ進む。電車の入り口はすぐそこにあった。たった数歩の距離なのに、そこまで歩く時間がやけに長く感じられた。


 乗れば、会えるかもしれない。


 会えないかもしれない。


 帰れないかもしれない。


 それでも。


 私はもう、何もしないまま後悔するのは嫌だった。


 ドアの前で一度だけ振り返る。


 駅員は、変わらずそこに立っていた。


「あなたは、何者なんですか」


 最後にそう聞いた。


 駅員は微笑んだ。


「三番線乗り場の駅員です」


「それ、本当に答えになってない」


「いつか、答えが必要になれば」


「そのときは?」


「また、お会いするでしょう」


 風が吹いた。


 遠くで、まだ乾ききらない街の匂いが揺れた。


 駅員さんの声は優しくて、それでいてずっと冷たくて。


 まるで雨上がりの景色みたいに、清々しいほど晴れやかだった。


 穏やかな風の流れが、物静かな駅のホームで鳴いている。


 太陽は東へ傾いていた。


 空を切り裂くひこうき雲が、窓越しの向こうに伸びていて。



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