第1話 夏のはじまり
——蝉が、鳴いている。
耳の奥に、細い針を何本も差し込まれるような声だった。じりじりと絶え間なく、遠くからも近くからも降ってくる。あまりにうるさいのに、なぜかその音は懐かしくて、私はしばらく目を閉じたままその夏の気配だけを聞いていた。
そうか。
今はまだ、夏なんだ。
夏が終わったわけじゃない。何もかもが雨に流されて、濁った川の底に沈んでしまったわけじゃない。空はまだ青くて、木々はまだ光を浴びていて、蝉はまだ、自分たちの短い季節を疑いもせずに鳴いている。
そんな当たり前のことを、私はずいぶん長いあいだ忘れていた気がした。
長い夢を見ているようだった。
起きているのか、眠っているのかも曖昧で、どこからが現実でどこからが夢なのか、その境目がまるで水に濡れた紙みたいにふやけている。私はぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと窓の外へ目を向けた。
そこには、長閑な街の風景が流れていた。
川べりに沿って伸びる道。そのさらに向こうにある雑木林。風を受けて葉がきらきらと揺れ、陽射しは白く、景色の輪郭を少しだけ滲ませている。大きな建物はなく、車の音も遠く、ただ夏だけが世界の真ん中に居座っているみたいだった。
私は電車に乗っていた。
いつから乗っていたのかはわからない。
どこから乗ったのかも、どこへ向かっているのかもはっきりしなかった。ただ気づいたときには、誰も乗っていない三両編成の一番前の車両にいて、私は窓際のシートに腰を下ろし、線路の先へ流れていく景色を眺めていた。
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
古い電車特有の揺れが、背中から体の奥へ染み込んでいく。床の下で車輪が規則正しく回り、つなぎ目を越えるたびに胸の奥まで小さく跳ねた。吊り革は誰にも掴まれないまま、ひとつ、またひとつと、ぶらぶら揺れている。窓枠の銀色の金具が光り、シートの布地には長い年月で擦れた跡があった。
車内は不思議なほど静かだった。
運転席の向こうに人影は見えない。後ろを振り返っても、座席には誰もいない。広告の中の笑顔だけが妙に明るくて、網棚の上には忘れ物ひとつなかった。まるでこの電車は、最初から私ひとりだけを乗せるために走っているみたいだった。
行き先を示す電光掲示板は消えていた。
アナウンスもない。
ただ電車だけが、どこかへ向かっていた。
空はいつになく明るかった。雲ひとつない、真っ青な晴天。段々畑の周りには、鮮やかな黄色をつけたひまわりがいくつも咲いていて、花はみんな同じ方向を向いていた。畦道の上を蜻蛉が飛び、その細い影がふとガードレールの白い線を横切る。
こんなに綺麗な夏を、私は知っていた。
知っていたはずなのに、思い出そうとすると胸が苦しくなる。
ひまわりを見ると、なぜか大輝のことを思い出した。
小学生の頃、背丈より高いひまわり畑の中で、どっちが早く出口を見つけられるか競争したことがある。大輝は勝負になるといつも本気で、私を置いてどんどん先に行ったくせに、私が本気で迷子になりかけると結局は戻ってきてくれた。
そのときの大輝は、まだ日焼けした細い腕で、汗だくの顔をして、息を切らしながら笑っていた。
「ひかり、遅すぎ」
そう言って、私の手首を掴んだ。
忘れていたわけじゃない。
忘れられるはずがない。
けれど、その声を思い出した瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。夏の景色が明るければ明るいほど、そこにもう大輝がいないという事実だけが、影のように濃くなる。
私は窓ガラスに映る自分を見ようとした。
けれど光が強すぎて、顔はうまく見えなかった。
チチチ、と小鳥が囀る音が聞こえた。
それが本当に外から聞こえたのか、それとも夢の中の音だったのかはわからない。けれど私は、その音に引っ張られるようにしてはっと目を開けた。
どうやら、いつのまにか眠っていたらしい。
首の後ろが少し痛い。手のひらには汗が滲んでいて、車内には冷房が効いているはずなのに、どこか生ぬるい空気が漂っていた。
「ここは……?」
声に出してから、自分でも驚いた。
その声はやけにかすれていた。寝起きだからかもしれない。そう思おうとしたけれど、喉の奥に残った違和感は、すぐには消えなかった。
窓の外に、見たことのある景色があった。
街へと続く川沿いの道。道なりに立つ古びた電信柱。緩やかなカーブの向こうに見える、今ではもうやっていないレストランの廃屋。白い壁はところどころ剥がれ、看板の文字は色褪せて、昔は家族連れで賑わっていた店だなんて、今の姿からは想像できない。
でも、私はその店を知っていた。
大輝と一緒に、何度も前を通ったことがある。部活帰り、自転車で並んで走った道だ。日が暮れるのが遅い夏は帰り道もまだ明るくて、大輝はよく、片手でハンドルを握ったまま私にくだらない話をした。
知っている。
この道を、私は知っている。
だからこそ奇妙だった。
電車は、北の方面へ動き始めたはずだった。あの駅員さんは、「三番線」と言っていた。帰りの電車がいつ来るかはわからない、とも言っていた。私は確かに、葬式の帰り、駅のホームで彼に会った。そして、次に来た電車に乗った。
けれど、この線路は三番線ではない。
二番線だ。
そんなこと、いちいち確認しなくてもわかる。私はこの路線を、高校に通うためにずっと使っていたからだ。朝の眠たい時間も、テスト前に単語帳を開いた時間も、部活帰りに汗の匂いを気にしながら乗った時間も、全部この電車の中に残っている。
窓越しに過ぎていく景色は、発車した方面とは反対側の場所にあった。
高校に向かう方角。
それは間違いなかった。
ほんのさっきまでは、私は川茂駅から離れていくはずだった。なのに今、電車は私の知っている道を、知っている順番でなぞっている。
教習所の五階建ての建物が見えた。
赤い河川橋が見えた。
山間の道へ入ると電信柱の影が濃くなり、斜面の下へ草原が流れていく。白く降り積もったような陽射しの中で、川面がちらちら光っていた。最初のトンネルに入ると窓は一瞬真っ黒になり、車内の蛍光灯が頼りなく浮かび上がった。
トンネルを抜けると、山がどっと近くなった。
胸に迫るような緑だった。
大都会の街並みよりも、この山間の景色のほうがずっと騒がしい。一斉に降る蝉時雨。じりじりと立ち上がる陽炎。広い川の向こうに聳える大倉山の山肌は何色もの緑を重ねたように鮮やかで、その輪郭は夏の熱に揺れていた。
間違いない。
いつもの道だ。
でも川茂駅は、この道の先にはない。
真反対なのだ。
私がさっきまでいた場所とは。
——なんで、こっちに?
まさか、逆走した?
そう思った瞬間、自分で自分の考えを否定した。
そんなこと、あるわけがない。
電車に乗り過ごしたことはある。寝ぼけて終点まで行きかけたこともある。でも、電車が突然引き返すなんて聞いたことがない。反対車線に乗れば反対方向へ向かう。当たり前だ。線路はそういうふうにできているんだから。
それなのに、私は戻ってきていた。
霧隠市川面町。
岡山県の中西部にある、山に囲まれた小さな街。県境にも近く、都会の人が聞けば「自然が豊かでいいところだね」と言うような場所だけれど、ここで育った私にとっては、どこまでも日常そのものだった。
小さなガソリンスタンドを越えた先に、街並みが見えてくる。低い屋根。古い商店。狭い道。見慣れた看板。どこか懐かしいのに、なぜか全部が少し遠く感じた。
久しぶりな気がした。
川茂駅を通り過ぎたのは、ついさっきのはずなのに。
車内に、ようやくアナウンスが流れた。
『次は霧隠、霧隠。お出口は左側です。ご乗車ありがとうございました。次は霧隠、霧隠——』
その機械的な声を聞いた瞬間、私はようやく自分が本当に戻ってきているのだと理解した。
霧隠駅。
私の街の駅。
大輝の葬式のあと、私はこの駅から電車に乗った。いや正確には、葬儀場から抜け出して駅のホームであの男に会い、そして電車に乗った。
あの駅員さん。
三番線乗り場の駅員だと名乗った、あの男。
次に来る電車に乗れば、彼にもう一度会える。
彼はそう言った。
ただし、帰りの電車がいつ君の前に現れるかはわからない、と。
私は、その言葉を信じたのだろうか。
信じたかったのだろうか。
大輝に、もう一度会えるなら。
たとえそれが夢でも、幻でも、悪い冗談でも。
私は、きっと乗ってしまった。
電車はゆっくりと減速し、ホームへ滑り込んだ。ブレーキの音が金属的に響き、車体が小さく揺れて止まる。扉が開くと、むっとした夏の空気が流れ込んできた。
ホームには、制服姿の学生が何人かいた。
白いシャツ。紺色のスカート。黒いリュック。見慣れた学校指定のローファー。誰かが友達と笑いながら話し、誰かがスマートフォンを見ながら歩いている。
その光景に、私はまた違和感を覚えた。
夏休みに入ったばかりなのに。
それに、今日は葬式の日なのに。
私は電車を降りた。
駅のホームは、記憶にあるよりもずっと明るかった。屋根の隙間から差し込む陽射しが、点字ブロックの黄色を強く光らせている。線路の向こうでは草が伸び、誰かが飲み残したペットボトルがベンチの下に転がっていた。
葬儀場に戻らなきゃ。
真っ先にそう思った。
勝手に抜け出したことを、母さんはきっと怒っている。澪には一応伝えたけれど、どこへ行くかまでは言わなかった。大勢の人がいたから、誰かが気づいているかもしれない。何より私は大輝の葬式を途中で抜け出したのだ。
それはどう考えても最低だった。
けれど、あの場にいることができなかった。
遺影の中で笑う大輝を見るのが、苦しかった。棺の中で眠る大輝を見るのが、もっと苦しかった。親族席の近くに立っていたおばさんの背中が小さく震えているのを見たとき、私は息ができなくなった。
大輝は、本当に死んだのだ。
そう思うたびに、頭のどこかが真っ白になった。
私は改札を抜け、駅舎の外に出た。時計を見ると、針は十二時を少し回っていた。太陽は高く、アスファルトには熱が溜まり始めている。額に汗が滲んだ。
スマートフォンを取り出し、母さんに電話をかけた。
コール音がやけに長く感じた。
『もしもし?』
「もしもし、お母さん?」
『どうしたの』
電話越しの母さんの声は、妙に普通だった。
怒っている感じではない。泣いている感じでもない。さっきまで葬儀場にいた人の声とは思えないほど、いつも通りだった。
「まだ会場に皆いる?」
『会場?』
「……さっき、抜け出しちゃって」
『何言ってんの?』
母さんの声が、少し怪訝そうになる。
えーっと。
まさか、ばれてない?
私は何も言わずに抜け出した。人もたくさんいたから、少しのあいだなら気づかれなくてもおかしくない。澪には一応伝えた。けれど、澪が母さんに言ったかどうかはわからない。
ひょっとして、本当に誰も気づいていないのかもしれない。
そう思った瞬間、ほんの少しだけ安心しかけた。
けれど次の母さんの言葉で、その安心は簡単に壊れた。
『あんた、学校は?』
「学校?」
『まだ昼だけど』
「昼も何も……夏休みに入ったばっかじゃん」
思わずそう言ってから、私は眉をひそめた。
大体、雨のせいで会社も休みだって言っていたはずだ。あれだけの豪雨のあとで、道も鉄道もあちこち止まっていて、学校なんてあるわけがない。そもそも今日は葬式の日だ。学校のことを聞かれる理由がわからなかった。
「今どこにいるの?」
『会社にいるけど』
「か、会社ぁ!?」
思わず駅前で声が裏返った。
葬儀は?
会社に用事でもあったの?
…いやでも、もう二時間くらい経っているのなら、葬儀が終わって会社に戻った可能性もある。母さんはそういう人だ。必要なら、泣いていても仕事に戻る。だけど今日は休みだと言っていた。雨の被害で会社も大変だとか、そんな話をしていたはずだ。
何かがおかしい。
会話が、ほんの少しずつ噛み合っていない。
「葬儀は、もう終わったの……?」
『はぁ?』
電話の向こうで、母さんの声が本気で裏返った。
『葬儀って、誰の?』
「誰って……」
言葉が止まった。
大輝の葬儀に決まっている。
そう言おうとして、なぜか喉が詰まった。
大輝。
渋谷大輝。
幼馴染で同級生で、私の一番近くにいた人。
川の氾濫に巻き込まれて、命を落とした人。
その名前を口に出せば、すべてが決定的になってしまう気がした。だから私は一瞬だけためらった。でも、ためらったところで現実は変わらない。大輝は死んだ。私は喪服を着て、葬儀に出ていた。
朝、慌てて起きて、黒い服に着替えた。
衣装ケースの奥から引っ張り出した喪服は、少しだけ肩がきつかった。母さんに「髪、ちゃんと結びなさい」と言われて、私は鏡の前で黒いゴムを探した。外はまだ雨の匂いが残っていて、車の窓には細かな水滴がついていた。
そうだ。
私は喪服を着ていた。
確かに。
なのに。
私は、ふと自分の体を見下ろした。
そして、息を止めた。
黒いワンピースではなかった。
喪服ではなかった。
私の体には、見覚えのない男子用の制服がまとわりついていた。
濃い色のジャケット。チェック柄のスクールパンツ。ズボンの外にだらしなく出された白いシャツ。その裾がジャケットの下から覗いている。首元のボタンは開いていて、ネクタイらしきものはポケットに突っ込まれていた。
あり得ない。
最初に浮かんだ感情は、それだった。
母さんが電話の向こうで何か言っている。
でも、耳に入ってこない。
私はふらふらと駅前のベーカリーの前まで歩いた。店の大きなガラス窓が、鏡のように外の景色を映していたからだ。そこに映る自分を見れば、きっと何かの間違いだとわかる。喪服の私がいて、暑さと混乱で見間違えただけだと笑える。
そう思いたかった。
でもガラスの向こうにいたのは、私ではなかった。
茶色がかった髪。
ワックスで固めたような毛先。
細い眉。
耳に開いたピアス。
だらしなく着崩した制服。
人相の悪い、見知らぬ男子高校生。
私は、その場に立ち尽くした。
誰だ、これ。
ガラスに映るその人間を、私は今まで一度だって見たことがなかった。いかにも田舎のヤンキーという感じで、駅前で目が合ったら、できれば関わりたくないタイプだった。
いや、そんなことはどうでもいい。
私は慌てて右手を挙げた。
ガラスに映る男子も、同じように右手を挙げた。
右足を上げる。
同じように上げる。
ジャンプする。
同じように跳ねる。
前屈みになる。
屈伸する。
両手でほっぺハートを作る。
考える人のポーズをする。
全部、完璧にシンクロしていた。
何をしているんだ、私は。
ベーカリーの中にいた店員さんとお客さんが、目を丸くしてこちらを見ていた。パンをトングで掴みかけたまま固まっている人がいる。レジの女性は、口を半開きにしている。小さな子どもが、母親のスカートの陰からこちらを覗いていた。
そりゃそうだ。
駅前のパン屋のガラスの前で、見知らぬ男子高校生が突然ほっぺハートを作ったり、考える人のポーズをしたりしているのだから、変な目で見られて当然だった。
けれど私は、それどころではなかった。
電話はまだ繋がっている。
『ちょっと、聞いてる? あんた今どこ?』
母さんの声が聞こえた。
でも、返事ができない。
私の口から出る声が、本当に私の声ではなかったからだ。さっきから感じていた喉の違和感。その正体が、ようやくわかりかけていた。
声が低い。
私の声じゃない。
私はスマートフォンを握ったまま、近くの公衆トイレへ駆け込んだ。人目なんて気にしていられなかった。絶対に何かの間違いだ。ガラスの反射がおかしかっただけかもしれない。角度のせいで、たまたま近くにいた誰かが重なって見えただけかもしれない。
そんな薄っぺらい可能性にすがりながら、私は洗面台の前に立った。
鏡を見た。
「……嘘だ」
それ以外の言葉は出てこなかった。
さっきよりも鮮明に見える。
さっきよりもずっと、はっきりしている。
そこには、私ではない誰かが映っていた。
知らない男子高校生。
それも、かなり態度の悪そうな。
私は震える手で、自分の顔を触った。
頬の骨の形が違う。
顎のラインが違う。
鼻筋も、唇の厚さも、目の高さも、全部違う。髪は短く、毛先は硬く固まっていて、指を通すとワックスの感触がした。耳たぶには小さなピアスがあり、触れると少し冷たかった。
首に触れる。
喉仏があった。
その感触に、全身がぞわっとした。
私は思わず一歩後ずさった。
「……男ぉ……ッ!!!!!??!!?」
叫び声が、トイレの壁に反響した。
自分で叫んでおいて、その声の低さにまた驚いた。勢いのあまり洗面台に手をつき、蛇口の金属がガタッと鳴る。鏡の中の男子も、同じように青ざめた顔でこちらを見ていた。
まさか。
そんなまさか。
自分が、知らない男になっているなんて。
夢だ。
絶対に夢だ。
頬をつねる。痛い。腕をつねる。痛い。洗面台の角に膝をぶつける。かなり痛い。夢ならもう少し加減してほしいくらい、ちゃんと痛い。
私はその場にしゃがみ込みそうになった。
でもしゃがみ込んだら二度と立てなくなる気がして、必死に洗面台にしがみついた。
何が起きているの。
私は誰。
ここはいつ。
大輝は。
大輝は、どこにいるの。
その名前を思い浮かべた瞬間、私ははっとした。
そうだ。
あの駅員さんは言った。
次に来る電車に乗れば、彼にもう一度会える。
私は電車に乗った。
そして、霧隠に戻ってきた。
喪服は消え、私は知らない男子高校生の姿になっている。
なら、これはただの迷子ではない。乗り間違いでも夢でも、悪ふざけでもない。あの電車は、私をどこかへ連れてきたのだ。
でも、どこへ?
過去?
別の世界?
それとも、誰かの体の中?
そこまで考えたとき、手の中のスマートフォンが震えた。
母さんとの通話は、いつの間にか切れていた。
画面を見る。
登録した覚えのない名前が、いくつも並んでいた。
不在着信。
メッセージ。
通知。
そのどれもが、私の知っているスマートフォンの中身ではなかった。ケースも違う。画面のひびの入り方も違う。待ち受けには、野球場で撮られたらしい写真が表示されている。夏のグラウンド。青い空。フェンスの向こうに並ぶ部員たち。
そして、その中央に映っていたのは。
鏡の中の、この男子だった。
私は震える指で、画面の通知を開いた。
そこには、短いメッセージが表示されていた。
『おい、どこいんだよ』
『今日の練習サボったら監督キレるぞ』
『春斗、お前マジで電話出ろ』
春斗。
知らない名前だった。
それなのに、その二文字は画面の上で妙に重たく、まるで最初から私のものだったみたいに逃げ場のない現実味を帯びていた。
私はもう一度、鏡を見た。
茶色がかった髪。
鋭い目つき。
だらしなく着崩した制服。
そこに映っているのは、どこから見ても私ではない誰かだった。制服の下にある骨格も、喉の奥からこぼれる息の低さも、さっき触れた体の感触も、すべてが紛れもなく男のものだった。
なのに中身だけが取り残されている。
私だけが、私のまま。
名前が違う。
姿が違う。
声が違う。
それでも、「自分である」という感覚だけは、どうしても消えてくれなかった。
そのズレがひどく気持ち悪かった。まるで、サイズの合わないユニフォームを無理やり着せられているみたいだった。脱ごうとしても脱げない。間違いだと叫んでも、誰も間違いだと認めてくれない。
私は、画面に表示された名前をもう一度見た。
春斗。
頭の中で、何度か繰り返す。
けれど、その音はどこにも引っかからなかった。私の記憶のどの引き出しを開けても、その名前は出てこない。少なくとも、宮野ひかりとして生きてきた十八年間の中に、春斗という人間はいなかった。
なのに——。
不意に、スマートフォンがまた震えた。
新しい通知が、画面の上に浮かび上がる。
『大輝が探してるぞ』
その瞬間、胸の奥で、止まっていたはずの夏が音を立てて動き出した。
外ではまだ、蝉が鳴いている。
何も変わっていないみたいに。
何も知らないみたいに。
ただ、あの日に続く夏だけを、もう一度始めるみたいに。




