石田の死を無効化(デバッグ)できない。――友が遺した、最後の一行。
やれやれ。
2026年、横浜。
桜の花びらが、まるで誰かの計算ミスでばらまかれたデバッグ用データの欠片みたいに、みなとみらいの潮風に乗って舞っている。
俺は、サークル活動の拠点だったガレージで、一人、荷物をまとめていた。
昭和の遺物みたいな古いソファ。それとは対照的な、最新パーツを詰め込んだ自作PC。それらが同居するこの空間こそが、俺にとっての唯一の聖域だった。石田はさっき、後輩たちに囲まれてどこかへ消えた。陽も、卒業式の余韻に浸るクラスメイトたちと記念撮影に忙しい。
「……これで全部か」
段ボールにガムテープを貼る音が、静かなガレージに響く。
手元に残ったのは、あの日から1度も針が動いていない、青いストップウォッチ。
世界は、あの日俺が仕掛けた稚拙なペテンを飲み込み、平然とした顔で「正しい明日」を刻み続けている。陽は生きている。石田も、萌も、瑠花も、涼も、それぞれの日常という名の軌道上を歩いている。
だが、そこに、100日後の未来から来たあの不器用な少女の姿はない。
俺がかつて「鳳」なんてふざけた名で、何者かになろうとして足掻いていた頃の残骸さえ、今では愛おしい日常の一部だ。誰も、俺が何を観測し、何を犠牲にしてこの青空を勝ち取ったのかを知らない。俺1人が、この胸に刺さったままの「痛み」に耐えていればいい。それだけのことだ。
「……やれやれ。一途ってのは、本当に割に合わないな」
俺は、ガレージのシャッターを下ろそうとして、ふと手を止めた。
入り口の向こう、陽光が降り注ぐ坂道の上に、1人の少女が立っていた。
端正に着こなした制服。風に揺れる黒髪。そして、ポニーテール。
強烈な既視感が脳を焼く。
潮風の匂いも、セミの声の代わりに響くドローンの音も、すべてが、あの国際会議場の風景と重なる。だが、そこにあるのは絶望の色じゃない。白飛びするような春の光の中で、彼女はゆっくりと、こちらへ向かって歩き出していた。
俺は、段ボールを抱えたまま、動けずにいた。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、視線の泳ぎすら制御できない。
彼女の歩調が、カチ、カチと、止まっていたはずの俺の秒針を無理やり動かしていく。
一歩、また一歩。二人の距離が、1センチずつ縮まっていく。
彼女は、ガレージの入り口で足を止めた。
少しだけ息を切らし、頬を赤らめ、睫毛の1本1本までが、春の光を反射して輝いている。
その瞳に宿っているのは、長い時間を超えて、たった1人の男を追い続けてきた者の執念、あるいは、ただの純粋な恋心。
「……やっと、見つけた」
鈴の鳴るような、だが確かな重みを持った声。
その一言だけで、俺が積み上げてきた冷笑も、斜に構えた防壁も、すべてが崩れ去った。あの日、ノイズの中に紛れ込ませた俺の本当の言葉。宿題を一緒にやろうなんて、あんな不格好な約束を、あいつは覚えていたのか。
俺は、涙を堪えるために、わざとらしく大きく息を吐いた。
喉の奥が熱い。指先が震えている。
だが、俺は最高の、最高に格好悪い笑顔を作って、彼女に応えた。
「あぁ。待ってたよ、凛」
桜の花びらが舞う中、二人の影が重なる。
境界の青。そこは、誰も死ぬことのない、そして誰も未来を知らない、真っ白な明日。俺たちは今、ようやくその入り口に立っている。
やれやれ。
本当に、一途ってのは疲れる。
だが、この胸の痛みも、この温かさも、すべてが俺たちの生きてきた証明だ。
俺は、彼女の方へ1歩、踏み出した。




