運命測定の青
やれやれ。
2026年、横浜。
桜の花びらが、まるで誰かの計算ミスでばらまかれたデバッグ用ノイズみたいに、みなとみらいの潮風に乗って舞っている。
俺はガレージの整理をしていた。
油の匂いと古いソファの感触。2026年最新の自作PCが放つ排気音だけが、ここがかつて「A-O」と呼ばれた場所であることを主張している。
石田はさっき、新しいガジェットの仕入れがあるとかで、浮かれた足取りで出て行った。陽は陽で、卒業式後の打ち上げの準備に余念がない。
「……終わったんだな、本当に」
独りごちた声は、空っぽのガレージに虚しく響いた。
手元の古い学校用タブレットの画面には、もう不吉な深度波形も、運命を強制するようなアラートも表示されない。ただ、真っ白な、あまりに真っ白で退屈な「明日」がどこまでも続いているだけ。
俺のポケットには、あの日から一度も針が動いていない青いストップウォッチが入っている。
世界は、あの日俺が仕掛けた稚拙なペテンを飲み込み、何事もなかったかのように平穏を取り戻した。陽は生きている。石田も、萌も、瑠花も、涼も、それぞれの日常を生きている。
そこに、100日後の未来から来たあの不器用な少女の姿はない。
俺がかつて「鳳」なんてふざけた名前でネットの海に叫んでいた、あの痛々しい自意識の残骸さえ、今では愛おしい日常の一部に埋没している。
誰も、俺が何を「観測」し、何を「撤回」してきたのかを知らない。
俺一人が、この熱帯夜の果てに掴み取った記憶の重みに耐えていればいい。それだけのことだ。
「……やれやれ。一途ってのは、本当に割に合わない」
俺は、ガレージの隅に置かれた段ボールを手に取った。
中には、あの日凛と共有した、数えきれないほどの「計算不可能な感情」の欠片が詰まっているような気がした。
彼女が残した「私を忘れて、明日へ進んで」という願い。
馬鹿を言うな。そんなことが簡単にできるくらいなら、俺はもっと器用に、もっと冷笑的に、この2026年をやり過ごせていたはずだ。
ガレージのシャッターの隙間から、白飛びするような春の光が差し込んでいる。
ドローンの羽音が遠くで鳴り響き、坂道の下では、AR広告が卒業を祝う派手な色彩を虚空に投影している。
世界は止まらない。
俺がどれだけ足を止めて、喪失感という名の泥沼に浸かっていても、時間は無慈悲に、そして残酷なほどに誠実に、未来という名の不確定要素を運んでくる。
「倫くん、まだ片付けてるのー?」
陽の声が外から聞こえる。
俺は一度、大きく息を吐き、膝についた埃を払った。
明日へ進め、か。
あいつが命を賭けて俺に託した「境界の青」は、今、俺の目の前に広がっている。
何の保証もなく、何の予言もない。
ただ、俺自身の足で歩くしかない、退屈で愛おしい2026年の風景。
俺は段ボールを抱え、ガレージの外へ出た。
頬を撫でる風は、もうあの夏の熱を帯びてはいない。
春。
新しい季節が、俺の知らない顔をして、そこに立っていた。
「……待ってろよ、凛」
俺は、空を見上げた。
ドローンの合間を縫って、どこまでも高く、どこまでも透明に広がる青。
俺が俺である限り、あいつとの約束は、この世界線のソースコードのどこかに、確実に刻まれているはずだ。
俺は、一歩を踏み出す。
これから始まるのは、もう運命に抗う戦いじゃない。
ただ、昨日までの俺に「さよなら」を告げて、誰も知らない真っ白な明日を、泥臭く書き込んでいくだけの日常だ。
やれやれ。
本当に、一途ってのは疲れる。
だが、この胸に刻まれた「痛み」こそが、俺がこの世界で、あいつと一緒に生きていた唯一の証明なんだ。
俺は、陽が待つ坂道の下へと、ゆっくりと歩き始めた。




