真夏の蜃気楼
やれやれ。
2026年、横浜。
ドローンが計算し尽くされた軌道で空を切り裂き、AR広告が坂道の地肌をけばけばしい色で塗りつぶす、この救いようのないほどに「いつも通り」の朝。
俺は、自作PCのファンが吐き出す熱気に当てられながら、自分の指先をじっと見つめていた。
「……やり遂げた、のか?」
独りごちた言葉は、換気扇の回転音に虚しく吸い込まれていった。
あの国際会議場の冷たい廊下で、俺は人生最大級のペテンを完遂した。ARプロジェクターの出力バグを逆手に取り、過去の俺自身の網膜に、実体のないノイズを叩き込んだ。
過去の俺は、あの瞬間、確かに「致命的な欠落」を観測したはずだ。
モニターを見れば、古い学校用タブレットの画面には、かつて俺を追い詰めた不吉な深度波形はどこにもない。ただ、平坦で、退屈で、何の保証もない真っ白なログが続いているだけ。
ガレージのシャッターを押し上げると、潮風と油の匂いが混ざり合った、いつもの横浜の空気が肺に流れ込んできた。
坂道を下り、みなとみらいの方角を眺める。
そこには、ドローンが運ぶ荷物に一喜一憂し、ARの割引クーポンを追いかける人々がいる。
あの日、銃声に切り裂かれたパーティーも、因果の渦に消えた誰かの影も、今のこの世界には存在しない。
「倫くん、おはよー! またガレージに籠もってたの?」
聞き慣れた、眩しいほどに明るい声。
振り返れば、ショートボブを揺らして、佐々木陽が笑っていた。
彼女は生きている。
何度も、何度も、俺がその手を離してしまった、あるいは守りきれなかった幼馴染が、今は当然のように夏の光の中に立っている。
「……ああ、陽か。おはよう」
「なにその反応。まるで見ちゃいけない幽霊でも見たみたいな顔して。ひっどいなぁ、これでも差し入れ持ってきたのに」
陽が手に持ったコンビニの袋を揺らす。
中には、俺が好きな銘柄の炭酸飲料が入っているんだろう。
すべてが、元通りだ。
俺が「鳳」なんてふざけた名で空回りしていた頃から続く、このどうしようもなくありふれた日常。
特異点を因果の檻から引き剥がし、陽が標的となる未来を書き換えた結果、世界は正解を選んだ。
だが。
俺の胸の奥には、消えないトゲが刺さったままだ。
陽と合流して学校へ向かう道すがら、俺は何度も、すれ違うポニーテールの少女に視線を走らせてしまう。
だが、そこには透明感のある黒髪も、制服を端正に着こなすあの凛とした背中もない。
高松凛。
100日後の未来から来た、俺の共犯者。
彼女の記憶を保持しているのは、おそらく、この世界でたった一人、俺だけだ。
「ねぇ、倫くん。さっきから変だよ? 誰か探してるの?」
陽が不思議そうに首を傾げる。
彼女の瞳の中には、かつて俺たちを襲った悲劇の破片など、微塵も残っていない。
それでいい。それが俺の望んだ結末だ。
あの土壇場で口にした、ありふれた宿題の誘いが、本当にこの停滞を終わらせる鍵になったのかはわからない。
だが、俺が俺の責任で、彼女に投げかけるべきだった言葉を口にした。その瞬間に、因果の歯車が噛み合ったことだけは確かだ。
「……いや、なんでもない。ただの寝不足だ」
俺は自嘲気味に笑い、歩調を早めた。
坂道の頂上で、俺は一度だけ振り返る。
白飛びするような夏の光が、ガレージの壁を白く焼き尽くしていく。
そこにはもう、未来からのメッセージも、結末を強いる予言もない。
あるのは、何の変哲もない、だが確かに明日へと続く2026年の風景だけだ。
彼女が残した「私を忘れて、明日へ進んで」という願い。
やれやれ。
本当に、どこまでお節介なヒロインなんだよ、あいつは。
俺はポケットの中で、動かないはずの青いストップウォッチを握りしめた。
それはもう、過去を書き換える力なんて持っていない。ただの重たい金属の塊。
だが、その冷たさだけが、俺があの熱帯夜の果てに、確かに何かを掴み取ったのだという唯一の証明だった。
「……待ってろよ、凛。忘れるわけないだろ、こんなに痛くて、眩しい夏の出来事をさ」
俺は、陽の背中を追って、眩しすぎる光の中に踏み出した。
ここから先は、脚本のない真っ白な明日だ。
俺の、一人きりの観測の旅はここで幕を閉じる。
これからは、ただの一人の高校生として、この退屈で愛おしい2026年を、泥臭く生きてやるだけだ。
やれやれ。
本当に、一途ってのは疲れる。
だが、この胸の痛みすら、今はどこか誇らしい。
俺は、前を向いて歩き続けた。
例え、誰からも忘れ去られた記憶だったとしても、俺が俺である限り、あいつとの約束は、この横浜の空の下で、静かに呼吸を続けているはずだから。




