特異点への介入
深夜の国際会議場。かつて陽が救われ、凛が消えたあの場所は、今や静まり返ったコンクリートの墓標のようだった。
僕は屋上のキャットウォークを、改造したARプロジェクターを抱えて走る。
眼下では、数日前の僕たちが、まさに陽を救おうと必死に足掻いているはずだ。時間はループし、重なり合っている。この場所は今、世界の因果律が最も激しく火花を散らす「特異点」となっていた。
「……ここだ」
屋上の最上段、巨大な通信アンテナの制御パネルに、僕は自作のインターフェースを叩き込んだ。
ストップウォッチを接続する。液晶の「0.000秒」が、アンテナを通じて街のARインフラへと伝播を始める。
『警告:未知のデバイスによる介入を検知。システムを初期化します』
脳内に、無機質な警告音が直接響いた。
世界の修正力だ。僕の存在を「異物」として排除しようとしている。
視界が激しく歪み、足元の鉄骨が砂のように崩れ始める。だが、それは現実ではない。僕の脳がシステムによってハッキングされているだけだ。
「やれやれ……脅しならもっとマシなのをやってくれ」
僕は血の混じった唾を吐き、キーを叩いた。
プロジェクターのレンズから、夜空に向けて真っ直ぐな光の柱が立つ。
「凛、今だ……!」
光の柱が、横浜の夜空に巨大な「ログ」を展開した。
それは、彼女と一緒に過ごした数々の記録。ガレージでの笑い声、雨の日の沈黙、坂道での最後。
世界から消去されたはずの「高松凛という物語」が、街全体のAR信号として再起動される。
その時、眼下の広場から眩い光が溢れた。
凛が自分を犠牲にして陽を救う、あの決定的な瞬間だ。
本来なら、そこで凛のデータは完全に消滅する。
だが、僕が空に投影した膨大なログが、システムに「エラー」を突きつける。
世界は、凛を「消去すべきデータ」として処理しようとするが、僕が投射したログによって「まだ必要なリソース」だと誤認し、処理を保留する。
『――倫、くん?』
風の中に、微かな声が混じった。
プロジェクターの光の中に、一瞬だけ、実体を持った凛のシルエットが浮かび上がる。
彼女は、数日前の自分と、今の僕を、悲しそうに、けれど愛おしそうに見つめていた。
「凛! 手を掴め!」
僕は光の中に手を伸ばした。
だが、指先が彼女に触れる直前、ストップウォッチから激しい火花が上がった。
アンテナがショートし、投影されていたログがバラバラに弾け飛ぶ。
「……っ、まだ、足りないのか……!」
光は収束し、凛の姿も消えた。
だが、確かな手応えはあった。
システムによる「完全消去」は防いだ。彼女のデータは今、この横浜の空、ARネットワークの隙間に、かすかな「予感」として残留している。
僕は膝をつき、熱を持って歪んだストップウォッチを握りしめた。
体中が、世界の修正力による拒絶反応で悲鳴を上げている。
「あとは……卒業式だ」
あの日、あの場所で、すべてのログを一つに繋げる。
それが僕に残された、最後の「宿題」だ。
僕は、夜明け前の横浜の街を見下ろした。
空には、消えかけた光の粒子が、名残雪のように舞っていた。




