既視感の残滓
AETHER社による「存在の消去」が始まってから、世界は目に見えてその輪郭を失いつつあった。
ガレージの片隅で、俺は青く発光し続けるデバイスを握りしめ、荒い呼吸を整えていた。意識しないうちに、指がボタンを押し込んでいる。警告音すら鳴らない。ただ、視界がわずかに瞬き、数秒前の光景が「正しい現在」として上書きされる。
「……倫くん」
背後から声をかけられ、俺の肩が大きく跳ねた。
振り返ると、そこには小野瑠花が立っていた。彼女の手には、使い古されたハンダごてではなく、温かい湯気がのぼるマグカップが二つ握られている。
「あぁ、瑠花か。……驚かせるなよ」
「驚いたのは私の方だよ。倫くん、今、また『やった』でしょ?」
瑠花の言葉に、心臓が凍りつくような感覚を覚えた。
石田なら、モニターに表示されるシステムログの不整合から指摘するだろう。だが、瑠花はPCに触れてすらいない。
「何のことだよ。俺はただ、ここに座って……」
「嘘。今、一瞬だけ、世界が『滑った』もの」
彼女は俺の隣に座り、マグカップを一つ差し出してきた。その指先は、以前俺の震えを指摘した時と同じように、静かで、それでいて逃げ場を許さないほど的確に俺を捉えていた。
「数字とか、プログラムのことは石田くんに任せるけどね。私にはわかるんだよ。倫くんがやり直すたびに、空気が、なんていうか……薄いプラスチックみたいになっていく音が聞こえるの」
瑠花は自分の腕をさすった。その肌には、かすかに鳥肌が立っている。
「最初は気のせいだと思ってた。でも、さっき倫くんがボタンに触れた瞬間、私の頭の中で、まだ起きていないはずの『マグカップを床に落として割る音』が響いたんだよ。でも、現実に起きたのは、倫くんが何事もなかったかのように私を見上げる光景だった。……ねえ、倫くん。私の体の中に、覚えのない『思い出』がどんどん溜まっていくの。それ、すごく怖いんだよ」
彼女の告白は、どんな技術的な警告よりも俺の胸に突き刺さった。
俺が無意識に繰り返している「オートデバッグ」は、周囲の人間の脳に、処理しきれない既視感という名の毒を流し込み続けていたのだ。
「ごめん、瑠花。俺は、ただ……」
「謝ってほしいんじゃないの。ただ、気づいてほしいだけ。倫くんが守ろうとしている私たちは、もう、そのやり直しに耐えられなくなってる」
瑠花が俺の手の上に、自分の手を重ねた。
その瞬間、俺の視界にノイズが走った。彼女の指の感触が、一瞬だけ「触れている」という事実を失い、冷たい無機質なデータの塊に変わる。
「……ほら、また。今の、倫くんも感じたでしょ?」
彼女は悲しげに微笑んだ。
非技術者である彼女が、その身体的な直感だけで世界の終わりを予見している。
俺が救おうとしていたはずの日常は、俺自身の指先から、砂のようにこぼれ落ちようとしていた。




