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巻き戻すたび、世界の解像度が落ちていく ~彼女を救う15,498回目の夏、僕だけが君を覚えている~  作者: 寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった


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坂道での約束

やれやれ。


AETHERの猟犬から逃げ切った先は、皮肉なことに、俺と凛が最初に並んで歩いた、あの山手の坂道だった。

追跡が途切れた理由はわからない。デバイスの残留ノイズが撒き餌になったのか、それとも世界が最後に一つだけ、俺たちに猶予を与えたのか。


坂道の頂上。2026年の横浜を象徴する、あの白飛びしたような夏の光が、俺たちの輪郭を無慈悲に削り取ろうとしている。

ドローンのプロペラ音が蝉の声と不協和音を奏でる中、高松凛は立ち止まった。ポニーテールが揺れ、彼女が振り返る。その瞳に宿る、言葉にならないログ。それが俺の胸の奥底にある回路を激しくショートさせる。


「浅野くん。……ここでお別れね」


凛の声が、潮風に混じって震えた。

理知的で、不器用で、計算不可能な感情なんてバグだと切り捨てていたはずの少女が、今、俺の隣で、たった一人の「人間」としての体温を晒している。


俺は知っている。この坂を下りきり、彼女が駅の改札を抜けた瞬間、俺たちの共犯関係は終わる。俺がガレージで「撤回」を実行した波及効果は、水面に広がる波紋のように、ゆっくりと確実にこの世界に染み渡っている。やがてその波が凛という特異点に届いた時、彼女の存在は、俺の、石田の、そしてこの街の記憶から綺麗さっぱりデリートされる。それが整合性ルールだ。


かつて鳳なんて名でネットの海を泳ぎ、他人の人生を安全圏から冷笑していた頃の俺なら、きっとこう嘯いただろう。

「結末の決まった物語に未練を残すのは、リテラシーの低い読者のやることだ」

……笑わせるなよ。この数センチの距離、触れれば壊れてしまいそうな彼女の肩を前にして、リテラシーなんてクソ食らえだ。


「……あぁ。そうだな。じゃあな、高松凛」


俺は精一杯の冷笑を仮面に貼り付けて答えた。

声が震えていないか? 2026年の湿り気を帯びた空気が、俺の喉を締め上げている。


「浅野くん。……最後に、一つだけ、わがままを言ってもいい?」


凛が歩み寄る。

モニターの青白い光ではなく、夕暮れのオレンジ色に照らされた彼女の肌。

彼女の手が、俺のシャツの袖を掴んだ。

それは、計算も論理も介さない、ただ一途で痛いほどの証明。


「私を、忘れないで。……たとえ、明日、あなたが私の名前を思い出せなくなっても。この夏、私たちがここにいたことだけは、あなたの『観測』の片隅に残しておいて」


凛はそう言って、眩しそうに目を細めて笑った。

その笑顔は、水面に反射する夏の光のように透き通っていて、俺は思わず視線を逸らしそうになる。

だが、逃げなかった。

俺は観測者だ。

彼女がこの世界から消え去るその瞬間まで、その横顔を、その痛みを、この瞳に、魂のログに焼き付ける義務がある。


「……断る。俺は、お前を覚えているために、この地獄を歩いてきたんだ。忘れるわけがないだろうが」


「……相変わらず、嘘が下手ね」


凛の唇が、俺の言葉を塞いだ。

1センチの境界線が消える。

縮まることのないはずだった空白が、潮風とドローンの羽音の中で埋められていく。

彼女から伝わる脈動。それは、驚くほど速く、そして熱かった。


俺は彼女の細い肩を抱き寄せた。

これが、俺たちの夏。

一途な恋心の果てに、理性の堤防が決壊して辿り着いた、もっとも美しい喪失の風景。

境界の青は、すぐそこまで迫っている。


ピアノの旋律が、夜の潮騒をかき消すように、重く、切なく、そして力強く立ち上がる。

凛の体温が、指先から少しずつ薄れていくのを感じる。

あぁ、波及効果が、ついにここまで届いたのか。

世界が、彼女という特異点を排除し、何事もなかったかのような「平凡な日常」へと収束し始めている。


「私を刻み込んで。……倫。あなたが、私の唯一の観測者だから」


耳元で囁かれたその熱い息遣い。

それが俺の魂の最深部に、一生消えない傷跡のように深く、深く刻み込まれていく。

たとえ数分後、俺が空っぽの駅前で「誰を待っていたんだっけ?」と首を傾げることになっても。

この肌に残った熱だけは、0と1の羅列には戻させない。


視界が白飛びし、坂道の風景が真っ白なノイズに包まれていく。

俺はただ、腕の中から消えていく確かな「重み」を、叫びたいほどの空虚さで見送るしかなかった。


「……ありがとう、倫」


その瞬間、世界は静止し、俺たちの夏は、永遠という名の過去へと収束した。

俺の目の前には、誰もいない坂道と、遠くで点滅する物流ドローンの赤い光だけが残されていた。

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