観測者のジレンマ
目が覚めると、ガレージの隙間から差し込む朝陽が、埃の舞う無機質な空間を白飛びさせていた。
隣には、もう誰もいない。
ソファに残された僅かな窪みと、鼻腔の奥にこびりついた彼女の残り香。それが、昨夜の出来事が単なる情報のバグ(ゆめ)ではなかったことを証明する唯一の残滓だった。
「……本当、救いようがないな。俺も、この世界も」
俺は鉛のように重い体を引きずりながら、メインモニターの前に座った。
画面に並ぶのは、修正された因果のリスト。萌、涼、瑠花、そして石田。彼らから奪い取った大切な何かの集積が、陽の生存確率を100%へと押し上げている。だが、そのリストの最下段には、まだ確定していない一文が、血の流れる傷口のように点滅していた。
『送信ログの完全撤回:未完了』
俺がモニターを凝視していると、背後でシャッターが静かに開く音がした。
凛だった。昨夜と同じ制服。だが、その表情は昨夜とは違う。夜の感傷を全部削ぎ落とした、冷たい決意の顔だった。
「……昨夜、言いかけたことを言いに来たわ」
凛は俺の隣に立ち、モニターの「撤回」の文字を一瞥した。それから、俺に向き直った。
「私を殺して、彼女を救いなさい。……これを実行すれば、陽の生存は完全に確定する。同時に、私がこの街に現れる理由も、あなたと出会う理由も、すべてが消える。それが整合性よ」
「……わかってる」
「わかっているなら、なぜ昨夜やらなかったの」
俺は答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
凛はしばらく黙って、それから静かに続けた。
「実行キーはあなたに託す。私には押せない。……自分の存在を消すボタンを、自分で押せるほど、私は合理的にできていなかったみたい」
彼女は小さく自嘲した。
その笑い方が、昨夜と同じで、俺は視線を逸らした。
理知的で、不器用で、プライドが高くて……そして誰よりも一途だった少女が、最後に俺に託したのは、彼女自身の存在をこの世界からデリートするための「実行キー」だった。
「……あぁ、最悪だ。鳳なんて名乗って、世界を冷笑していたツケがこれかよ」
俺は自嘲気味に笑い、震える指先をマウスに添えた。
かつてネットの片隅で、「自己犠牲は物語のテンプレだ」と切り捨てていた自分を、物理的に殴ってやりたい気分だ。テンプレ? 笑わせるな。この指先にかかる数グラムの重みが、どれだけの絶望を孕んでいるか、当時の俺には1ビットも理解できていなかった。
「倫」
凛が、俺の名前だけを呼んだ。
「私を覚えていてくれる人間が、この世界にただ一人だけいる。……それだけで、私は十分よ」
俺はモニターを見た。
このボタンをクリックすれば、俺は陽を救った英雄になれる。だが同時に、俺は高松凛という一人の少女を、この宇宙から完全に観測不能にする殺人者になる。
「……凛。お前、今どこで見てるんだよ」
振り返ると、すでに彼女はいなかった。
シャッターが、音もなく閉まっている。
ガレージの外では、2026年の日常を告げるドローンの羽音が蝉の声に混じって響き、AR広告が空虚な幸福を街中に投影している。
俺は唇を噛み切り、自分の内側にある感情という名の回路を強引にシャットダウンさせた。
俺の手が、画面上のアイコンに重なる。
彼女の指先の熱が、まだ手のひらに残っているような気がして、視界が歪む。
睫毛が震え、頬に伝わる熱い液体が、モニターに映る「撤回」の文字を滲ませた。
ピアノの旋律が、不協和音を伴いながら、この世界線の終焉を告げるように加速していく。
俺はただ、視界が情報の奔流で塗りつぶされる直前、魂のログに最後の一行を直接書き込んでいた。
「さよなら、凛。俺がお前を、誰よりも観測していた」
その瞬間、俺は力任せに左クリックを押し込んだ。
デバイスが激しく発光し、俺の視界が一瞬だけ真っ白なノイズに焼き切れる。
意識が、数秒間だけ途切れた。
次に俺が気づいた時、ガレージは静まり返っていた。
モニターには「撤回:完了」の文字が、静かに点滅している。
凛はいない。最初から、いなかったかのように。
だが、ソファの窪みはまだそこにあった。




