存在しない「空白(Null)」の境界線
「……ねえ、倫くん。ここ、前は何があったんだっけ?」
陽が不安げに指差した先を見て、俺は喉の奥が引き攣るのを感じた。
横浜駅へ続くはずの大通り。その右側一帯が、まるで巨大な彫刻刀で削り取られたように、真っ白な「無」に変わっていた。
ビルも、街路樹も、アスファルトの質感すらもない。
そこにあるのは、3DCGの制作過程で目にするような、テクスチャが割り当てられる前の無機質なグリッド線だけだ。
「……コンビニがあったはずだ。老夫婦がやってる、少し古びた店が」
絞り出した俺の言葉に、陽は小首をかしげた。
「コンビニ? ……ううん、そんなの、最初からなかった気がする」
心臓が跳ねる。
世界がリソースを節約するために、削除したオブジェクトに関する「周囲の記憶」さえも書き換え始めている。
ガレージに戻ると、石田が血走った目でモニターを睨みつけていた。
キーボードを叩く指が、摩擦で熱を持っている。
「倫……最悪だ。物理演算の優先順位が、ついに『生物』にまで及び始めた」
「どういう意味だ、石田」
石田が指し示した画面には、街中の監視カメラのログが映し出されていた。
公園で遊ぶ子供たちの影が、地面から浮いている。犬の散歩をしている男の足首から下が、地面にめり込んで埋没している。
「世界の解像度が足りてないんだ。重要度の低いと判定されたNPC……いや、人間たちの演算が簡略化され始めてる。このままだと、そのうち『呼吸』や『心拍』の処理すら省かれるぞ」
「そんなことが、あってたまるか……!」
俺はポケットの中で、もはや触れることすら躊躇われるほど熱を帯びた銀色の筐体を握りしめた。
デバイスの表面には、ひび割れた液晶のように青いノイズが走り続けている。
その時、ガレージの片隅で静かにハンダ付けをしていた瑠花が、ポツリと呟いた。
「……来る」
直後、ガレージのシャッターを激しく叩く音が響いた。
それは人間の拳による音ではない。金属と金属がぶつかり合うような、硬質で、不自然に規則正しい音。
「浅野倫。そこにいるのは、わかっている」
ドア越しに聞こえてきたのは、死んだはずの「エーテル社」の暗殺者の声だった。
だが、その声はひどく機械的で、複数のノイズが混ざり合っている。
俺がシャッターの隙間から外を覗くと、そこには「バグった」暗殺者たちが立っていた。
一人の男の顔面には、別の男のテクスチャが二重に重なり、四本の腕が物理演算を無視して空を泳いでいる。
世界が俺という「不具合」を排除するために、ゴミ箱に残っていたデータを無理やり再利用して、刺客を生成したのだ。
「……やれやれ。取説がないなら、自分で書くしかないってことか」
俺はデバイスのボタンに指をかけた。
世界のメモリが底を突くのが先か、俺が正解のコードを書き込むのが先か。
「石田、陽を頼む。……瑠花、俺の『座標』を見失うなよ」
俺は青い光に包まれながら、グリッド線だけの白い世界へと踏み出した。




