世界のメモリ不足。重要度の低い「俺の思い出」から順に削除されていく。
やれやれ。
2026年の横浜、その熱帯夜。
俺は今、石田の姿がガレージの油の匂いと共に情報の濁流へと消えた瞬間を背に、逃げるように山手の坂道を駆け上がっていた。背後でシャッターが閉まるような幻聴が響く。それは、俺たちが共有していた唯一無二の青春という名のサーバーが、物理的に破壊された音だったのかもしれない。
俺が次に向き合うべきは、もはや誰でもない。
この因果の鎖を断ち切るための、最後にして最大のハードル。
陽の生存を確定させるための、最後の一押しだ。
これまで俺は、萌の言葉を奪い、瑠花の恋心をリセットし、涼の平穏を嵐に投げ込み、そして石田の誇りをゴミ捨て場へと放り投げてきた。陽という、眩しいほどに平凡な幼馴染の命を繋ぎ止めるために。そのたびに俺の喉の奥には、鉄の味が濃く沈殿していく。
「……これで、終わりか」
いや、終わっていない。
坂を登り切った先、街灯が白飛びする夏の光を不自然に強調している場所に、あいつは立っていた。
佐々木陽。
ショートボブを揺らし、いつも眩しそうに目を細めて笑う、俺の日常の象徴。
彼女はまだ、自分が何度も死に、そのたびに俺が世界を壊して回っていることなんて露ほども知らない。2026年の夜空に浮かぶドローンの識別灯を、ただの綺麗な星だと信じているような、そんな無垢な瞳で俺を見ている。
「浅野くん! 遅いよ、みんな待ってるんだから」
陽が、坂道の頂上で手を振った。
その屈託のない笑顔の輪郭、頬に差す微かな赤らみ。それを見つめるだけで、俺の胸の奥にある回路がショートしそうになる。俺がどれだけ手を汚し、どれだけの「可能性」を殺してこの場所に辿り着いたか。そのすべてを、この笑顔一つで肯定しろと言うのか。
「陽……お前、明日のこと、楽しみか?」
「え? 当たり前じゃん。明日はみんなで海に行く約束でしょ? 倫くんが寝坊しないか、それだけが心配かな」
明日の海。
それは、本来の運命では陽が決して辿り着けない、真っ白な未来の入り口だ。
俺はこのストップウォッチを押し、最後のログを書き換えることで、彼女をその「明日」へと送り出す。だが、それは同時に、俺がこの夏に出会った高松凛という、あの凛としたポニーテールの少女との絆を、永久に喪失することを意味している。
「やれやれ。本当、救いようがないな。……俺も、この予定表も」
かつて「鳳」としてネットの片隅で世界を斜に構えて眺め、他人の必死な生き様を冷笑していた頃の俺に教えてやりたい。お前が嘲笑っていた「大切なもののために世界を敵に回す主人公」ってのは、想像以上に心臓に悪いぞ、とな。
陽の背後、みなとみらいの夜景がAR広告のノイズで激しく明滅している。
ドローンの羽音が、一斉に鳴り響く蝉の声のように脳髄を揺さぶり、世界の境界線が曖昧になっていく。
陽。ごめんな。……お前のその、当たり前すぎる日常を守るために、俺は俺自身の「一番大切な記憶」を、今からデリートする。
ポケットの中で、青いストップウォッチが静かに、けれど力強く拍動している。
これが最後だ。
このボタンを押し込めば、因果は収束し、陽は生き残り、そして高松凛は……俺の目の前から、そしてこの世界の観測記録から消え去る。
「浅野くん……? なんだか、すごく遠いところを見てるみたい」
「いや。……近くを見てるよ。お前が、ちゃんとそこにいるかどうかをな」
俺は唇を噛み切り、震える指先に全神経を集中させた。
陽を救う。そのミッションの完遂は、俺にとっての最大の救済であり、同時に最大の罰でもある。
境界の青へ。
誰も死ぬことなく、けれど俺が愛した「あの夏」だけが欠落した、残酷なほどに平和な明日へ。
ピアノの旋律が、夜の静寂を切り裂くように、重く、悲劇的に加速していく。
俺は、震える親指に力を込めた。
世界が歪み、陽の笑顔が光の粒子に溶けていく。
俺はただ、消えゆく彼女の体温と、その先に待っているはずの「存在しないはずの彼女」の面影を、魂のログに深く、深く刻み込むことしかできなかった。




