偽りの安寧
ガレージの外では、夕暮れ時の横浜をオレンジ色の光が刺すように照らしている。
陽の命を救うために「ログ」を書き換えてから数日が経ち、街は何事もなかったかのように平穏を取り戻していた。
「あ、倫くん! お疲れ様。これ、みんなで食べようと思って買ってきたんだ」
ガレージの重いシャッターを開けて入ってきた陽は、いつもの屈託のない笑顔でコンビニの袋を掲げて見せた。
俺はその笑顔を見るたびに、胸の奥を刺されるような感覚に襲われる。
彼女が今こうして笑っているのは、俺が世界の整合性を歪め、本来辿るはずだった「死」という結末を無理やり剥ぎ取った結果だ。彼女はその事実を、露ほども知らない。
「……おう。サンキュ、陽」
俺はなるべく自然な声を出し、彼女から袋を受け取ろうとした。
その時、陽がふと動きを止め、俺の顔をじっと見つめてきた。
「……ねえ、倫くん。ちょっと変なこと言ってもいい?」
陽の声から、いつもの明るさが消えていた。
隣のデスクでPCを叩いていた石田も、ハンダごてを握っていた瑠花も、その異変に気づいて手を止める。
「なんだよ、改まって」
「あのね……私、最近変な夢をよく見るの。すごく暗くて、怖くて、自分が自分じゃなくなるような……。でもね、その夢の最後には、必ず誰かが手を伸ばしてくれるんだ。誰かはわからないんだけど、すごく温かくて、頼りになる手」
陽は自分の右手をそっと握りしめ、不思議そうに視線を落とした。
「その夢から覚めると、私、なぜか倫くんの顔が見たくなるんだ。理由は全然わからないんだけど……私、倫くんに何度も助けてもらったような気がするの。だから、ちゃんと言っておきたくて。倫くん、いつもありがとう」
彼女の言葉は、どんな感謝の言葉よりも鋭く、俺の心臓を貫いた。
石田が「夢の解析か? 睡眠不足じゃねえのか」と茶化すが、瑠花だけは違った。瑠花は、以前俺の指先の震えに気づいた時と同じ、全てを見透かすような瞳で俺と陽を交互に見つめていた。
「……気にすんな。俺は何もしてねえよ」
俺は逃げるように視線を逸らし、デバイスが入ったポケットを強く握りしめた。
俺が救った事実は、ログの奔流に消えたはずだった。だが、彼女の魂のどこかに、書き換えきれなかった「感謝」という名のノイズが残っている。
そのことが、今の俺にとって唯一の、そして最も残酷な救いだった。




