萌の、夜明け
やれやれ。
2026年の横浜、その湿った熱気に包まれた夜。
俺は今、みなとみらいの喧騒から少し離れた、古い歩道橋の上に立っている。手元にあるのは、使い古された青いストップウォッチと、誰にも言えない後悔の集積回路。ついさっきまで、俺は自分のことを誰かを救える側の人間だと勘違いしていた。だが、その傲慢さが招いた結果が、今のこの喉の奥にへばりつく、嫌な熱を帯びた沈黙だ。
俺が向き合うべき相手は、他でもない。SNSというデジタルな殻に閉じこもり、文字の羅列でしか世界を観測できなかったはずの少女、桐谷萌だ。
「……浅野くん、そんなにストップウォッチを見つめて、何かのカウントダウンでも待ってるの?」
萌が、少しだけ不安げに首を傾げた。以前の彼女なら、こんな風にまっすぐ俺の目を見ることはなかったはずだ。俯いて、スマホの画面越しに言葉を紡ぐのが精一杯だった彼女が、今は自分の足で立ち、自分の声で俺を呼んでいる。俺が過去を書き換え、彼女に一言を贈ったことで生まれた、この瑞々しい現在。だが、陽を救うためには、この萌の成長さえもなかったことにして、彼女を再びあの孤独な夜へと突き落とさなければならない。
「萌。お前、さっきの原稿……本当に自分で書き上げたんだな」
「うん。……浅野くんが、あの時送ってくれたメッセージのおかげ。私、自分の言葉で伝えてもいいんだって、初めて思えたから」
萌の笑顔。街灯に照らされたその表情には、確かな希望が宿っている。この残酷なまでに純粋な変化を、俺は今から自分の指先一つでデリートしようとしているわけだ。
「やれやれ。本当、救いようがないな。……俺も、この世界も」
俺はかつて、鳳なんてふざけた名でネットの荒波を冷笑していた。誰かが傷つこうが、物語が悲劇に終わろうが、それはモニターの向こう側の情報に過ぎないと切り捨ててきた。だが、目の前で呼吸をし、俺を信じているこの体温を、どうやってただのログとして処理しろと言うんだ。
ポケットの中で、ストップウォッチの冷たい金属が俺の皮膚を刺す。石田ならそれが最適解だと言うだろうか。凛なら因果の収束だと片付けるだろうか。俺は唇を噛み切り、AR広告がバグったように激しく明滅する夜空を見上げた。
ドローンの羽音が、遠くで重低音を響かせている。俺は震える手を隠すように、ストップウォッチのボタンを強く押し込んだ。陽を、陽を救うためだ。その大義名分の影で、俺の魂が真っ黒なノイズに侵食されていくのを、俺だけが静かに感じていた。
ピアノの旋律が、夜の静寂を切り裂くように、重く加速していく。萌。ごめんな。……お前の夜明けを、俺がもう一度、真っ暗な闇に塗りつぶしてやる。俺たちは、最初から出会うべきじゃなかったんだ。
視界が歪み、世界が青い光に包まれていく。俺はただ、消えていく彼女の笑顔を、瞼の裏に焼き付けることしかできなかった。




