【致命的エラー】自分の記憶が、他人の「保存データ」に書き換えられている。
やれやれ。
2026年の横浜、その湿った熱気に包まれた坂道で、俺は自分の不甲斐なさを呪っていた。
喉の奥にへばりつく鉄の味と、心臓を直接掴まれているような不快な拍動。先ほどガレージで凛と交わしたあの「熱」さえ、冷たい現実の波に飲み込まれ、急速に輪郭を失っていく。
俺は今、みなとみらいを見下ろす高台へと続く、気の遠くなるような石段の途中にいた。
背後ではドローンの羽音がセミの声と不協和音を奏で、AR広告のネオンが夕闇に沈む街を不自然な極彩色に染め上げている。
「……あいつらに、なんて言えばいいんだ」
俺が今向かっているのは、かつて俺の「140文字のやり直し」によって、望まない幸福を手に入れてしまった仲間たちの元だ。
陽を救う。そのためのたった一つの解法は、あまりにも残酷だった。
彼女たちがようやく掴み取った「現在」を、この俺の手で、無慈悲に奪い取っていく作業。
「浅野、くん……? どうしたの、そんなに怖い顔をして」
坂の途中で、桐谷萌に呼び止められた。
無口な編集者。かつてはSNSの世界にしか居場所がなかった彼女は、今、俺が過去を書き換えたおかげで、現実の言葉で自分の想いを綴る術を手に入れている。
彼女の瞳に宿る、静かな自信。その輝きを消去すれば、陽が戻る。
論理的には正しい。だが、俺の内側にある感情という名のシステムが、その実行コマンドを全力で拒否していた。
「萌……悪い。今から、お前の大事な場所を、俺が全部ぶっ壊す」
「え……?」
俺は震える手で、ポケットの中のストップウォッチに触れた。
凛は言った。「因果の彼方へ消える」と。その言葉の重みが、今さらになって俺の華奢な肩にのしかかってくる。
15,532回も夏をやり直してきたわけじゃない。けれど、この一回の、たった数行のログを消す重みは、これまでのどの「やり直し」よりも鋭利に俺の魂を削っていく。
「やれやれ。本当、救いようがないのは俺の方だ」
かつて「鳳」としてネットの片隅で世界を冷笑していた頃の俺なら、きっと賢しげな顔でこう言っただろう。「最大多数の最大幸福のために、一部のデータ損失は致し方ない」と。
だが、今の俺にはそんな冷徹な計算式は使えない。
萌の戸惑う顔を、ドローンの影が非情に横切っていく。
俺は唇を噛み切り、自分の指先に全神経を集中させた。
陽を救うための第一歩。
それは、俺がもっとも大切に思っていた「仲間との絆」という名の記録を、自らデバッグすることだった。
ピアノの旋律が、夕暮れの横浜に冷たく響き渡る。
俺は萌の視線を振り切り、次の「撤回」のために、さらなる高みへと足を早めた。
境界の青は、まだ、果てしなく遠い。




