浅野倫、走る
やれやれ。
君の冷徹な指摘は、みなとみらいの潮風よりも鋭く、俺の独白を正確に削ぎ落としてくる。
メタ的な言い訳を並べて保身を図るなど、孤独な観測者を気取る男のすることじゃなかった。
俺は今、みなとみらいを一望できる高台の、壊れかけのベンチに座っている。
ガレージを飛び出し、陽の手を引いて路地裏を駆け抜け、喉から血の味がするほど坂道を上り詰めた後の、束の間の静寂。
「……ねえ、倫くん。さっきから変だよ。ガレージに戻らなくていいの? 石田くんたちが待ってるよ」
隣で肩を揺らしながら息を切らす陽が、水着のバッグを抱えたまま、不安げに俺の横顔を覗き込む。
その瞳の輝き。睫毛の一本一本に宿る、夏の光。
直前の世界線で俺が視た「あの光景」では、この瞳から光が消え、横浜の乾いたアスファルトが彼女の鮮血で汚されていた。その感触が、今も右手にこびりついて離れない。
俺は無言で、改造されたストップウォッチを握りしめた。
マインド・リープに成功し、過去へ戻った俺に残された猶予は、あとわずかだ。18時42分にガレージで目覚めてから、すでに15分以上を消費している。石田が「数学の宿題が解けない」とボヤいていた平和なガレージには、もうじき、物理的な破滅が訪れる。
「陽、いいか。今から俺が言うことを、冗談だと思わずに聞いてくれ。……今夜、この街の空を飛んでいるドローンは、荷物を運んでいるんじゃない。俺たちを探しているんだ」
「えっ……? ドローンが? でも、あれはただの警備用で……」
陽の言葉を遮るように、上空で重低音の唸りが響いた。
物流用ノードから切り離された、エーテル社直轄の戦闘用ドローン。その赤色灯が、AR広告のノイズを切り裂き、俺たちの足元を執拗に照らし出す。
「……浅野くん、そこにいたのね」
背後の坂道から、凛とした、だがどこか悲しげな声が届く。
振り返ると、そこにはガレージにいたはずの高松凛が立っていた。だが、その手には、あの廃棄タブレットではなく、論理的な殺意の塊である漆黒の端末が握られている。
「凛……お前、ガレージにいたはずじゃ……」
「それは15分前の私よ、浅野くん。……あなたが『記憶の過去転送』を実行した瞬間、世界線の収束が加速した。今、この横浜にいる私は、あなたの行動を阻止するために未来から再配置された『観測の代行者』」
凛のポニーテールが、海風に冷たく揺れる。
2026年の技術体系において、最も恐ろしいのは情報の隠蔽ではない。確定した未来を維持するために、システムが「障害」を自動的に排除し始めることだ。
「陽を渡して。彼女の存在そのものが、この世界線における致命的なエラーなの。……彼女を消さなければ、境界の青には辿り着けない」
「ふざけるな! 誰が消えるか、誰が残るか、そんな計算式に陽を当てはめてたまるか!」
俺は陽の前に立ちはだかり、ストップウォッチのボタンに親指をかけた。
マインド・リープの代償か、視界の端でAR広告の文字が文字化けし、世界がドットの荒い映像のように歪み始める。魂の解像度が削られていく感覚。
ピアノの旋律が、不協和音となって街中に響き渡る。
セミの声が止み、代わりに数百台のドローンの羽音が、夕暮れの空を黒く塗りつぶした。
「倫、悪い。……やっぱり、この計算式、どうしても一箇所だけ、お前という変数が邪魔で解けないんだわ」
通信インカムから、石田圭の苦い声が漏れる。彼もまた、エーテルの監視網に捕まったのか。
袋小路。
絶望的なチェックメイト。
だが、俺は冷笑的な笑みを浮かべてみせた。
かつて鳳という名でネットの荒波を泳いでいた頃、俺は知っていた。どんなに強固なシステムにも、必ず「一途すぎる執着」が引き起こす、論理的なバグが存在することを。
「凛……お前に一つだけ教えてやる。俺は孤独な観測者だが、ただ見ているだけの傍観者じゃない」
俺はストップウォッチを連打した。
ログ・リープ。
マインド・リープ。
持てるすべての禁忌を同時に発動させ、2026年の横浜という舞台装置そのものを、俺の執念でオーバーロードさせる。
暗転する視界。
陽の震える指先の感触。
俺は、この青い絶望の先にある、まだ誰も観測していない明日へと、全力で駆け出した。




