暗転する夏空
2026年の横浜において、もっとも若者の貴重なリソースを無駄に浪費し、かつ取り返しのつかない後悔を量産するアクティビティ。
それは、ガレージの熱気に浮かされながら、取扱説明書すら存在しない「神の領域」へのボタンを、不器用な指先で押し込んでしまうことだ。
視界が、物理的な限界を超えた青いノイズに塗りつぶされる。
鼓膜を刺すのは、ドローンの羽音でも、セミの死に際のような鳴き声でもない。俺の脳細胞がデジタル・パルスへと強制変換される際に発する、魂の断末魔だ。
「……浅野、くん! 離して、逃げて……!」
最後に網膜に焼きついたのは、スローモーションの中で崩れ落ちる佐々木陽の姿。彼女の喉を震わせた悲鳴が、0と1の羅列に変換される直前の、俺の唯一の「現実」だった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、俺は激しい吐き気と共に、昭和の香りが染み付いた古いソファの上で跳ね起きた。
「……は、ぁ、はぁ……っ!」
喉の奥が焼けるように熱い。
鼻腔を突くのは、火薬の匂いではなく、使い古されたはんだごてのヤニ臭さと、潮風の混ざり合った、いつものガレージの空気。
俺は震える手で、自分の顔を触った。冷たい汗が、指先にまとわりつく。
生きて、いる。いや、この表現は正しくない。
「戻ってきた」のだ。あの銃声が響く直前の、まだ何も壊れていない、偽物の平穏の中へ。
「浅野くん? どうしたの、急に。自作PCの冷却効率が悪すぎて、脳までオーバーヒートしたかしら」
冷徹だが、どこか微かな湿り気を含んだ声。
視線を上げると、そこには高松凛がいた。
彼女はポニーテールを揺らし、型落ちのタブレットを片手に、俺の心拍数をモニターしている。その瞳には、未来から来た観測者特有の、すべてを見透かしたような、それでいて深い孤独の色が宿っていた。
「……凛、今、何時だ」
「18時42分。パーティーの準備を始めてから、ちょうど15分が経過したところよ。……まさか、やったのね?」
彼女の問いに、俺は答えず、手元のストップウォッチを凝視した。
針の動かないはずの盤面が、俺の網膜には激しく脈動しているように見える。
自分の意識を電気信号に変えて過去の自分に叩き込む。
あの夜、石田がガレージの片隅に設計図の最初の一行を書き付けてから、俺たちは三週間、ほとんど眠らずにこの装置を組み上げた。失敗すれば意識が帰ってこないかもしれないと言った石田に、「それでいい」と即答したのを覚えている。そうして死ぬ思いで完成させたこの禁忌は、残酷なほど完璧に機能してしまったらしい。
俺はたった今、数分後の未来で陽が撃たれるという「確定した事実」を抱えたまま、この時間軸をジャックしたわけだ。
「倫、悪い。……いや、さっきも言った気がするんだが、やっぱりこの宿題、何度解いても答えが一致しないんだ。まるで誰かが数値を書き換えているみたいに」
ガレージの隅で、石田圭がテックウェアの袖をまくり、脳天気に眼鏡を押し上げる。
机の上に広げられたノートには、終わりのない計算式が並んでいた。
こいつはまだ知らない。
この数分後、このガレージにエーテル社の武装集団が踏み込み、俺たちの日常を粉々に砕くことを。
「……宿題なんてどうでもいい。石田、今すぐシャッターを閉めろ。陽はどこだ!」
「ひ、陽? あぁ、さっき市民プールに行くって……って、倫、おい! 何なんだよ、その顔!」
石田の困惑を無視し、俺はガレージを飛び出した。
外は、白飛びするような夏の夕暮れ。
坂道の向こうから、物流ドローンの編隊が、規則正しい羽音を立てて接近してくる。
AR広告のネオンが、現実の景色を浸食するように不気味に点滅している。
「陽……!」
俺は全力で坂道を駆け下りた。
肺が破れそうに熱い。
鎖骨の浮き出るような華奢な体格が、今の俺には呪わしいほど頼りない。
角を曲がると、水着の入ったバッグを提げた陽が、眩しそうに目を細めて歩いているのが見えた。
彼女は俺に気づくと、パッと顔を輝かせる。
「倫くん! どうしたの? まさか、一緒に泳ぎたくなっちゃった?」
「いいから、来い!」
俺は陽の手首を掴んだ。
その肌の温もり。睫毛の先に光る汗。
未来で失われるはずの「現実」が、掌を通じて俺の感覚を支配する。
陽は驚きながらも、俺に引かれるまま走り出す。
「ねえ、どうしたの? 倫くん、手が震えてるよ……?」
答えられない。
俺が過去を書き換えるたびに、運命の深度は増し、世界はより残酷な結末へと収束しようとする。
背後で、複数のドローンの羽音が一斉に加速した。
それは物流のノイズではない。獲物を追い詰める、エーテルの猟犬たちの咆哮だ。
俺は陽を抱えるようにして、入り組んだ路地の影に身を潜めた。
心臓の鼓動が、鼓膜を直接叩く。
指先の震えが止まらない。
かつて「鳳」という名でネットの海に冷笑を垂れ流し、世界の全てを斜に構えて見ていた頃の俺なら、こんな状況、笑い飛ばして皮肉なコメントの一つでも残していただろう。あの頃の俺には、失うものが何もなかった。だから怖くなかった。
だが、今の俺は、たった一人の少女の「明日」という重みに、押し潰されそうになっていた。
路地の隙間から覗く横浜の空。
そこには、AR広告のノイズを突き抜けて、夏の星座が静かに、だが確実に輝き始めていた。
まるで、俺たちの足掻きを嘲笑う、確定したプログラムのように。
「……陽。絶対に、俺の手を離すなよ」
俺の囁きは、潮風に混じって消えた。
不穏な影は、もうすぐそこまで来ている。
俺は再び、ストップウォッチの冷たい感触を確かめた。
やり直しは、ほどほどに。
誰かの警告が脳裏をよぎるが、俺はもう、止まるつもりはなかった。
たとえこの魂が、0と1の塵になって消えるとしても。




