残響のなかで
ガレージの壁が崩れ、その先に広がる虚無から、冷たい風が吹き込んでくる。
それは物理的な冷気ではなく、存在そのものを否定するような、情報の欠落が生んだ静寂だった。
俺はゆっくりと、自分の手首を返した。
皮膚の質感が、まるで古いフィルムのノイズのように時折ザラつく。自分の体ですら、維持するためのリソースが削られ始めているのだ。
「……行かなきゃならないんだな」
ポツリと溢れた言葉は、誰に宛てたものでもなかった。
足元では、かつて陽と一緒に組み立てたサーバーラックが、もはや色を失ったただの直方体へと成り下がっている。思い出の詰まった場所が、一つ、また一つと「意味のないデータ」に還元されていく。
「……倫くん」
背後で、瑠花が弱々しく俺の服の裾を掴んだ。
彼女の指先は、触れている感覚があるのに、どこか実体がない。霧を掴んでいるような、あるいは遠い記憶をなぞっているような、不確実な感触。
俺は振り返り、彼女の瞳をじっと見つめた。
そこには、俺が知っている「瑠花」の優しさがまだ残っている。たとえそれが、世界が俺を引き留めるために演算し続けている「最後の嘘」だったとしても。
「ごめんな。……すぐ、戻るから」
嘘だ。戻れる保証なんてどこにもない。
次に目を開けたとき、このガレージがあるのか、彼女が「瑠花」としてそこに立っているのかすら分からない。
それでも、俺は彼女の指を優しく解き、闇の境界へと一歩を踏み出した。
「止める気はないわ」
ガレージの入り口、唯一光が差し込む場所に、凛が立っていた。
彼女は何も言わず、ただ進むべき道を示すように、暗闇の先を指差している。その横顔は、悲しんでいるようにも、あるいはすべてを悟って諦めているようにも見えた。
「あなたの選んだ因果が、この世界の終着点。……これ以上、ログを汚さないで」
凛の声は、風に溶けて消えそうなほど細かったが、俺の胸には誰の言葉よりも鋭く突き刺さった。
俺はポケットの中のデバイスを強く握りしめる。
漆黒に染まりきったそれは、もはや時間を操る道具ではなく、世界の断末魔を形にしたような歪な重りとなっていた。
ガレージを後にする俺の背中で、最後の一灯が瞬き、そして消えた。
完全な闇。
その中で、俺はただ自分の心臓の音だけを頼りに、書き換えられるはずの明日を探して、深い因果の底へと手を伸ばした。
セミの鳴き声も、潮風の匂いも、もう思い出せない。
ただ、掌に残る冷たい感触だけが、俺がまだここにいる唯一の証拠だった。




