虚像の安息
ガレージのソファに深く沈み込み、俺は動かなくなった指先をじっと見つめていた。
視界の端では、古いブラウン管のモニターが、もはや映像とは呼べない光の点滅を繰り返している。
「……また、この場所か」
独り言が、空っぽの空間に虚しく響く。
かつては仲間たちの熱気と、ハンダ付けの匂いに満ちていたこの場所も、今では解像度の低下によって、輪郭のぼやけた書き割りのようになっていた。
「倫くん、コーヒー淹れたよ」
瑠花がトレイを持って近づいてくる。
その動作は優雅で、献身的だ。だが、俺は彼女が差し出したカップに手を伸ばすことができなかった。
カップから立ち上る湯気が、デジタルノイズのように等間隔で途切れている。そして何より、コーヒーの匂いが――。
「……匂いが、しないんだ」
俺の呟きに、瑠花は小首を傾げた。その瞳は澄んでいるが、そこには「なぜ匂いがしないことが問題なのか」を理解するためのロジックが欠落しているように見えた。
「そう? 豆を挽いたばかりなのに。……ねえ、倫くん。そんなに難しい顔をしないで、少し休んだら? 陽くんだって、さっきまでそこで笑ってたじゃない」
瑠花が指差す先。そこには、誰もいない椅子があるだけだ。
いや、俺の脳が「そこに陽がいる」という事実を拒絶しているだけなのかもしれない。世界がリソースを削りすぎたせいで、俺の記憶の中の陽と、目の前の空白を繋ぎ止める演算が追いつかなくなっている。
俺はポケットの中のデバイスを握りしめた。
指先に伝わるのは、もはや金属の冷たさではなく、腐食した肉のような、ぬるま湯のような不快な熱。
銀色だった面影はどこにもない。そこにあるのは、すべてを飲み込む漆黒に限りなく近い、沈んだ紫色の塊だ。
「……笑ってた、か。そうだな。あいつは、いつだって笑ってたよ」
喉の奥が引き攣れる。
ここで「やれやれ」と肩をすくめて、他人事のように振る舞えたらどれほど楽だろうか。だが、今の俺にそんな余裕はない。
目の前で微笑むこの「瑠花」が、本物なのか、それとも俺の精神を崩壊させないために世界が用意した間に合わせの「慰め」なのか、判別がつかないことが何よりも恐ろしかった。
「倫」
凛の声が、影の中から聞こえた。
彼女だけが、この嘘くさい安息を切り裂く、鋭利なナイフのような現実を帯びている。
「決断の時よ。このままこの『書き割り』の中で飼い殺されるか、それとも――すべてが消え去るリスクを背負って、最後の一行を書き換えるか」
俺は顔を上げ、凛を見つめた。
彼女の背後で、ガレージの壁が音もなく砂のように崩れ、その向こう側に底なしの「無」が広がっているのが見えた。
「……わかってる。こんな偽物のコーヒーを飲むために、俺は一万回も繰り返してきたわけじゃない」
俺は立ち上がり、震える足で崩落する世界の境界へと歩き出した。
瑠花が差し出したカップが、床に落ちて割れる。その音すら、今の俺の耳には届かなかった。




