15,498回目の欠落
意識が千切れる寸前、俺の視界には数多の「失敗した未来」の残滓がフラッシュバックしていた。
脳を直接焼くような熱量と共に、俺の知らない俺の記憶が、濁流となって流れ込んでくる。
2026年、8月。
以前属性の書き換えを実行し、強引に季節を飛ばしたあの日から、世界の崩壊はもはや隠しきれないレベルに達していた。
意識の深層に映し出される横浜は、もはや街の体を成していない。遠くのランドマークタワーはテクスチャが剥がれ落ち、灰色のポリゴンが剥き出しのまま空に突き刺さっている。ドローンの羽音は、壊れたレコードのように同じ音を繰り返し、空中で静止したまま火花を散らしていた。
混濁する意識の中で、俺は手の中にあるストップウォッチを凝視していた。
筐体は、もはや光を一切反射しない漆黒に染まりきっている。
液晶画面には、かつて鏡の端で見たあの数字が、今度は逃げようのない現実として血のような赤色で点滅していた。
累計エラーログ:15,498件
「……15,498回目、か」
俺は自分の声が、遠い異界から届くエコーのように聞こえた。
戦慄が背筋を走る。俺が自覚している「やり直し」は、数えるほどしかないはずだった。凛を救い、陽を救い、萌の絶望を消し、そして瑠花の属性を書き換えた。
だが、このデバイスのログが真実を語るなら、俺が日常の隙間で瞬きをした一瞬、あるいは無意識にボタンを弄った微細な瞬間にさえ、この黒い塊は世界の不都合を勝手に感知し、一万回を超える微細なデバッグを繰り返してきたことになる。
俺が「良かれと思って」選んだ救いの裏側で、世界は俺の預かり知らぬところで1万5千回も切り刻まれ、端材として捨てられてきたのだ。
「浅野くん、もうやめて。これ以上は……『無』に戻るだけよ」
記憶の海の中で、凛の声が響く。
彼女の姿も、もはや不安定だった。肩のあたりが時折ノイズで激しくブレ、彼女の存在そのものがこの世界から追い出されようとしている。
「やめるわけにいかないだろ。陽が……陽があんな姿になってるんだぞ」
ガレージの隅。ソファに横たわる佐々木陽を見る。
彼女の身体は、足元から徐々に透明になり始めていた。それは死ではない。彼女というデータが、この世界に存在するためのメモリを失い、消去されかけているのだ。
「属性を変え、因果をねじ曲げすぎた。……瑠花を汎用モデルとして再定義するために必要だった膨大な演算リソースは、この世界で一番最初の修正対象だった佐々木陽から奪われたのよ。システムの優先順位が、彼女を不要な残骸だと判断したの」
凛の言葉が、鋭いナイフのように俺の胸を抉る。
俺は神様になろうとして、一番救いたかったはずの日常を、自らの手で消し去ろうとしていた。
「……うるさいッ!!」
俺は叫び、漆黒のデバイスを握りしめた。
俺の焦燥に反応するように、デバイスは不気味な黒い脈動を始める。
ふと、ガレージの扉が開く。
そこに入ってきたのは、小野瑠花だった。
今の世界線では「男」として定義されているはずの彼は、なぜかかつての「女の子」だった頃のワンピースを身に纏い、虚ろな瞳でこちらを見ていた。
属性の衝突。
書き換えられた過去と、残された残像が混ざり合い、親友の存在定義さえもバグの中に溶け始めている。
「倫……暑いよ、この夏休み、いつ終わるんだっけ……?」
瑠花の言葉に、俺は絶望した。
15,498回繰り返される、終わりのないデバッグの果て。
今、俺がマインド・リープの激流の中で見ているのは、この積み上げられた絶望の総体だ。
俺は、震える手で再びデバイスを持ち上げた。
もし、この膨大なエラーログを一括で相殺できる究極の修正があるとするならば、それはもう、今の俺の存在を代償にするしかない。
その決意が、リープ中の俺の意識をさらに加速させる。
漆黒の筐体が、俺の手を焼き尽くさんばかりの熱を放った。
崩壊していく横浜の空に、現実のものとは思えない巨大な ERROR の文字が浮かび上がり――
次の瞬間、俺の意識は「15,499回目」の5月7日へと叩きつけられた。




