テクスチャの剥離
凛の言葉をなぞるように、周囲の景色が「意味」を失い始めていた。
展望デッキから見える横浜の街並み。かつては誇らしげにそびえていたランドマークタワーが、今はただの、灰色の平坦な多角形に見える。窓の反射も、鉄骨の質感もない。ただ「そこに巨大な構造物がある」という概念だけが、最低限の描画で維持されていた。
「……気持ち悪い」
俺は胃の底からせり上がる不快感を堪えた。
それは視覚的なバグというより、もっと根源的な、世界の「手抜き」に対する生理的な拒絶だった。
人混みの中を歩いてみる。
すれ違う人々から、個性が消えていた。
誰かが着ているシャツの柄が、一歩ごとに隣の通行人のカバンへと転写され、混ざり合っていく。話し声は聞こえるが、それは「群衆の音」という一つの音声ファイルがループ再生されているだけで、個々の口の動きとは一切同期していない。
「倫くん、待ってよ!」
背後から瑠花の声がした。
振り返ると、彼女は必死に俺を追いかけてくる。だが、その足取りはどこか不自然だ。地面を蹴る反動がなく、まるで氷の上を滑るように位置だけが移動している。
「……来ないでくれ」
「どうして? 私、何か悪いことした?」
瑠花の顔が歪む。それは悲しみの表情というより、顔面の筋肉という「パラメータ」が、悲しみを表現するために無理やり引き延ばされたような、無機質な変化だった。
俺は彼女から目を逸らし、隣を歩く陽を見た。
陽は、自分の左腕が肘から先、完全に背景の海に溶けて透明になっていることにも気づかず、楽しげにスマートフォンの画面——中身のない、ただの光る板——を眺め続けている。
「……凛。世界は、もうここまで『軽量化』されてるのか」
いつの間にか隣に並んでいた凛が、冷めた瞳で街を見つめていた。
「ええ。重要度の低いリソースは、すでに計算を放棄されたわ。今のこの世界を維持しているのは、あなたの観測と、私たちが生きているという『矛盾した事実』を繋ぎ止めるための、最低限のエネルギーだけ」
凛が足元の縁石を軽く蹴ると、石の破片が飛び散ることなく、デジタルな立方体の粒子となって虚空に消えた。
「この軽量化が進めば、やがて感情や思考といった『内面のデータ』も削られる。そうなれば、彼らはただの動く書き割りになるわ。……倫、あなたにその変化が耐えられる?」
俺はポケットの中で、もはや脈打つ内臓のように熱を帯びたデバイスを握りしめた。
かつて守りたかった「日常」は、いまやテクスチャの剥げ落ちた、薄気味悪いシミュレーターの残骸へと成り果てていた。
俺が救ったはずの命は、この崩壊しつつある箱庭の中で、いったい何を根拠に「生きている」と言えるのだろうか。
視界の端で、夏の終わりの入道雲が、真っ黒なノイズの塊となって崩れ落ちるのが見えた。




