摩耗する特異点
「……凛、聞いてくれ。さっきののっぺらぼう、あれは世界の――」
俺は必死に声をかけ、その少女の肩を掴んだ。
だが、振り返った少女の顔を見て、俺の思考は真っ白に凍りついた。
「……えっ? 倫くん、どうしたの? 急に怖い顔して。私は瑠花だよ」
そこにいたのは、高松凛ではなく、瑠花だった。
麦わら帽子の下から覗く、見慣れたはずの顔。だが、俺の脳は激しい拒絶反応を起こしていた。さっきまで、彼女の背中は間違いなく「高松凛」の解像度を持っていたはずなのに。
「あ……。悪い、瑠花。間違えた……。凛は、どこだ?」
「凛ちゃん? 彼女なら、最初からこの旅行には来てないよ。……ねえ、倫くん。本当に大丈夫?」
瑠花が俺の頬に手を伸ばす。その指先が触れた瞬間、脳内に強烈なノイズが走った。
視界が二重、三重に重なる。
セミの鳴き声。雪の降る音。雨の匂い。
一度も経験していないはずの「15498回分」の夏が、冬が、春が、膨大なログとなって俺の脳に逆流してくる。
(……止まれ。俺は、いつの俺だ?)
俺は、ドローンに潰される陽を何回見た?
凛の葬式に何回出た?
そして、隣にいるこの少女——「瑠花」と、何度ここでこの会話を繰り返した?
「陽、お前も言えよ。倫くん、さっきから変なんだよ」
瑠花が隣の陽に同意を求める。だが、陽の姿を見た瞬間、俺は喉の奥から込み上げる不快な熱を抑えられなかった。
陽の顔。その左半分のテクスチャが、まるで処理落ちしたかのように低解像度のポリゴンへ退行している。
「ああ、倫のやつ、また徹夜でコードでも書いてたんじゃねえの?」
陽の口の動きと、聞こえてくる音声が、コンマ数秒ズレている。
「……っ、近寄るな!」
俺は二人を突き放し、ふらふらと後退した。
今の俺にとって、親友であるはずの陽は「壊れかけた3Dモデル」にしか見えず、幼馴染であるはずの瑠花は「誰かのデータを上書きされた偽物」にしか感じられない。
「……倫」
背後から、冷徹な、けれど唯一現実を感じさせる声が響いた。
振り返ると、人混みの向こうに高松凛が立っていた。
彼女だけが、周囲の歪んだ風景から切り離されたように、残酷なほど鮮明な存在感を放っている。
「限界ね。あなたの脳が、デバイスから送られてくる膨大なログを処理しきれなくなっている。……1万回を超えたあたりから、人間は『誰が誰であるか』という定義すら維持できなくなるのよ」
彼女の足元、タイルが波打つように変形し、そこから紫色の光が漏れ出している。
「瑠花さんを見て。……彼女、さっきからあなたの『望み』に合わせて、少しずつ形を変えているわよ。気づいていないの?」
俺は震えながら瑠花を見た。
彼女の着ている服が、俺が「凛に似合っている」といつか思ったはずのワンピースへと、音もなく変質していく。
世界が俺の混乱に同調し、もっともらしい「嘘」を作り上げようとしている。
俺はポケットの中で、もはや黒に近い紫へと変色したストップウォッチを握りしめた。
もはや、何を救おうとしていたのかすら、記憶の濁流の中で見失いかけていた。




