軽量化の街
「……おかしいのは、俺の方か?」
スポーツドリンクの冷たさを感じながら、俺は陽炎に揺れるみなとみらいの街並みを見渡した。
5月から8月への、約100日間のスキップ。
本来、その間にあったはずの期末試験も、梅雨の湿っぽさも、サークルで議論した時間も、俺の記憶からは完全に欠落している。
「どうしたの倫? さっきからボーッとして。熱中症かな」
陽が俺の顔を覗き込む。その肌は、まるで昨日まで海にでもいたかのように綺麗に日焼けしていた。
「……陽。お前、6月や7月のこと、覚えてるか?」
「はあ? 当たり前だろ。サークル活動の締め切りで徹夜したり、みんなで江ノ島に行ったり……。お前、自分が一番はしゃいでたくせに何言ってんだよ」
陽の答えは淀みなかった。だが、俺は違和感を拭えない。
彼が語る「思い出」は、あまりに完璧で、まるで台本を読み上げているような滑らかさだった。
(違う。世界が、つじつまを合わせるために『偽の記憶』を彼らに上書きしたんだ)
凛が言っていたリソースの概念。
二人の生存という巨大な矛盾を維持するために、世界は「5月から8月までの詳細な演算」を放棄した。そこにあったはずの無数の分岐や可能性を切り捨て、最短ルートでこの8月末へと接続したのだ。
そして、その「演算の端折り」に気づいているのは、特異点であるこのデバイスを持つ俺だけ。
俺は立ち上がり、周囲を見回した。
そこで、さらなる異変に気づく。
「……音が、足りない」
海水浴客の喧騒、車の走行音、波の音。
それらは確かに聞こえるが、どこか遠く、ラジオの音声を聞いているような奥行きのなさを感じた。
ふと視界の端を通り過ぎた通行人に目を向けると、心臓が冷たく波打った。
その通行人は、こちらを向いているはずなのに、目も鼻も口も曖昧な、まるでのっぺらぼうのような顔をしていた。俺が注視した瞬間に、まるで急いで描画されたかのようにパーツが形成されたが、その不自然さは明白だった。
これが、凛の言っていた「世界の軽量化」。
重要度の低いデータ(モブの顔や遠くの環境音)から順に、描画の優先順位を下げられている。
「……凛はどこだ。高松凛は」
「凛ちゃん? さっき、あっちの展望デッキの方に歩いていったけど……」
陽の指差す方を見る。
そこには、異常に鮮明な色彩を放つ一人の少女の背中があった。
周囲の書き割りような風景の中で、彼女だけが、この世界の「バグ」から逃れようと必死に高解像度を保っているように見えた。
俺は走り出した。
足元のタイルの感触が、一歩ごとに泥を歩いているように柔らかく、あるいは岩のように硬く変質する。
物理法則の根幹が、俺の足元から崩れ始めていた。




