断絶する季節
「……よし、これで明日の準備は——」
ガレージの机に向かい、俺は5月8日の予定をメモ帳に書き込もうとしていた。
ペン先が紙に触れる。その瞬間、視界の端で蛍光灯が激しく明滅した。
ジジ、と鼓膜を突き刺すようなデジタルノイズ。
「あ……?」
瞬きをひとつ。
たったそれだけの間に、風景が「書き換わって」いた。
窓から差し込んでいた柔らかな五月の夕陽は、暴力的なまでの白光に変わっている。
耳に届くのは、湿り気のない初夏の風音ではなく、鼓膜を削るような凄まじいセミの鳴き声。
肌にまとわりつく空気は、春の予感を含んだものではなく、アスファルトを焼く不快な熱気だった。
俺は呆然と手元を見た。
握っていたはずのペンはなく、代わりに俺は、見たこともないキンキンに冷えたスポーツドリンクのボトルを握っていた。
「倫くん、どうしたの? 早く飲まないとぬるくなっちゃうよ」
隣に座る瑠花が、麦わら帽子を直しながら不思議そうに俺を覗き込んでいる。
彼女の服装は、さっきまで着ていた薄手のパーカーではなく、ノースリーブの夏服に変わっていた。
その姿を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
あの夜、俺の目の前で「別の何か」に塗り替えられていったはずの彼女が、今は何事もなかったかのように元の姿をしている。声も、手のひらの細さも、見慣れた瑠花そのものだ。
世界が3ヶ月を端折る際に、瑠花のデータも一緒に再計算したのか——それとも、凛が言いかけた「瑠花のことだけは」の続きが、この結果なのか。
俺には判断できなかった。ただ、彼女が「彼女のまま」でそこにいるという事実だけが、この灼熱の空気の中で、かろうじて俺を正気に繋ぎ止めていた。
「……瑠花。今、何日だ?」
「えっ? 何言ってるの。8月の25日だよ? 夏休みも、もう終わりだねって話してたじゃない」
8月。
そんな馬鹿な。5月の夜を迎えようとしていたはずの俺の意識が、3ヶ月の空白を飛び越えて、いきなり8月の終わりに着地している。
(……飛ばされたのか? それとも、俺が『忘れている』だけか?)
必死に記憶を手繰り寄せる。だが、6月や7月の記憶は、水に濡れた絵画のように輪郭が溶け、どれだけ思い出そうとしてもノイズが混じって霧散してしまう。
その代わりに脳裏をよぎるのは、一度も経験したはずのない「数千回分の、似て非なる夏」の断片だった。
浴衣姿で泣いている凛。
陽炎の向こうで、首のないドローンに追いかけられる陽。
何度も、何度も、俺は死ぬ彼らを助けようとして——。
「うっ……!」
激しい頭痛に、俺はこめかみを押さえた。
記憶の整合性が取れない。俺の中にある「昨日」と、この世界の「今日」が、パズルのピースが歪んでいるかのように噛み合わない。
「大丈夫? 倫くん。やっぱり、最近の暑さでおかしくなっちゃったのかな」
瑠花が心配そうに俺の額に手を当てる。
その時、俺は気づいてしまった。
彼女の差し出した手のひら。その親指の付け根にあったはずの小さな火傷の跡が、綺麗さっぱり消えていることに。
「……ああ。ちょっと、立ちくらみがしただけだ」
俺は震える手で、ポケットの中のストップウォッチをなぞった。
指先に伝わるのは、もはや金属の質感ではない。
冷え切った、それでいて脈打つような、異質な「青」の波動。
世界は、俺を置き去りにして計算を端折り始めている。
3ヶ月分の因果を「不要なリソース」として切り捨て、無理やりこの8月に接続したのだ。
セミの鳴き声が、次第に電子的なアラート音のように聞こえ始める。
俺の精神は、すでにこの世界の歪みに蝕まれ始めていた。




