演算リソースの対価
「……なんだ、これ」
ガレージの隅で、俺は自分の右手に握られたストップウォッチを凝視した。
青く染まったあの日から、このデバイスは「一言のログ」を過去に送るだけの不器用な道具だったはずだ。だが今、画面は漆黒を通り越し、どろりとした紫色のノイズを吐き出している。
画面に表示されているのは、もはや日本語ですらない。
ERROR: Resource Depletion / Re-assigning Property: Subject-RU / Template: Generic_Male_01
「倫くん……? どうしたの、そんな怖い顔して」
瑠花が不安そうに俺の顔を覗き込む。
その瞬間、俺の脳裏に昨日の瑠花の言葉が蘇った。「もっと強く、男の子みたいに堂々としていられたら」という、場を和ませるためのささやかな冗談。
だが、この壊れかけたデバイスはその「言葉」を、最適化のための絶好の口実として拾い上げてしまった。
「……っ、逃げろ、瑠花! その場から離れるんだ!」
俺が叫ぶのと、デバイスから電子悲鳴のような高周波が上がるのは同時だった。
違う。俺は瑠花の願いを叶えたかったわけじゃない。
俺はただ、陽が消える「5月7日の消失点」を回避するために、世界を再読み込みしようとしただけだ。
だが、この黒いデバイスは、俺の意図を最悪の効率で解釈した。
陽の生存という「高負荷なログ」を維持するための演算リソースが足りない。なら、周囲の「変数」をより単純なデータに置き換えて帳尻を合わせればいい。
複雑な個性を持ち、繊細な感情を演算し続ける「少女・小野瑠花」というデータを破棄し、街に溢れるモブキャラクターと同じ「汎用男子学生」のテンプレートを流用して上書きする。
それが、世界が提示した残酷な節約術だった。
「あ……が、ぁ……っ!!」
瑠花が喉を押さえてうずくまる。
彼女の身体を構成するピクセルが激しく明滅し、着ているワンピースのテクスチャが、デジタルノイズに呑み込まれて剥がれ落ちていく。
いや、消えたんじゃない。
「彼女」という定義そのものが、世界から抹消されているんだ。
「やめろ……中止だ! 元のデータに戻せ!!」
俺は狂ったようにボタンを連打したが、デバイスは熱を持ち、俺の掌の皮を焼いた。
凛が冷めた目でその光景を見ている。
「無駄よ、倫。それはもうデバッグじゃない。システムの破綻を防ぐための『強制的な軽量化』だもの。彼女は、あなたの望んだ未来を支えるための『生贄』に選ばれたのよ」
「くそっ……、瑠花! 瑠花!!」
俺の手の中で、デバイスの画面が確定を告げる。
Update Complete. Subject: RUKA -> Type: MALE_G01
ノイズが収まったガレージ。
そこに立っていたのは、俺たちが知っている小野瑠花ではなかった。
短くなった髪。骨ばった肩。困惑したように自分の胸に手を当てている、見知らぬ少年。
「……倫……くん?」
声まで、低く、どこか聞き覚えのある「ありふれた少年の声」に変わっている。
俺は絶望に震えながら、黒いデバイスを床に叩きつけた。
陽を救うための代償として、世界はまず、俺の幼馴染の「個」を削り取った。
だが、デバイスはそこで止まらなかった。
画面に、新たなエラーコードが点滅する。
WARNING: Cascading Resource Deficit Detected / Initiating Temporal Compression / Skipping non-essential calculation nodes: 05/08 → 08/25
「……何を、している」
俺は呟いた。震える声が、誰にも届かない。
「強制的な軽量化」が完了した世界は、次の処理として「不要な3ヶ月」を端折ろうとしている。瑠花の属性書き換えに費やしたリソースは、それほどまでに巨大な負債を生んだのだ。
「倫」
凛が、静かに俺の名を呼んだ。
今日、この世界線で初めて、「浅野くん」ではなく「倫」と呼んだ。
「次に意識を取り戻す時、あなたが知っている今日は消えている。覚えておきなさい。世界がスキップした分の記憶は、霧の中に沈む。それでも、瑠花のことだけは……」
凛の声が、ホワイトノイズに溶けていく。
視界が白く飛んだ。
俺の意識が暗転する直前、ガレージの扉の向こうに、夏の陽炎が揺れているのが見えた気がした。
まるで、3ヶ月先の世界が、今すぐここに割り込んでくるかのように。
Update Log 05/08-08/24: Purged.
Resuming from: 08/25.
俺たちの日常は、修復不可能なほどに、醜く、そして安っぽく歪み始めていた。




