ログの書き換え、因果の歪み
2026年、5月10日。
あのみなとみらいの事故から3日が経過した。
世界は表面上、何事もなかったかのように回っている。ニュースではドローンの安全基準が見直されるという話題が繰り返されているが、俺の記憶にある「陽が死んだあの凄惨な光景」は、もはやこの世界のどこにも記録されていない。
ガレージのソファに座り、俺は手に持ったストップウォッチを見つめていた。
筐体は、もはや銀色の面影すらない。以前よりもさらに深く、光を一切反射しない漆黒、あるいは不気味な紫の混じった色に変色していた。握りしめると、そこから漏れ出す「青いノイズ」が俺の指先を侵食していくような錯覚に陥る。
日付は確かに進んでいる。だが、ふとした瞬間に見る時計の数字や、スマホの通知センターのフォントが、ほんの一瞬だけ、古めかしいドット文字のように見えることがあった。
「倫、またその時計見てるのか。お前、それ拾ってから本当に暗くなったぞ。ほら、これ食って元気出せよ」
圭が放り投げてきたのは、コンビニの新作おにぎりだった。
受け取った瞬間、俺はわずかな戦慄を覚えた。パッケージのビニールの感触が、異様に「薄い」気がしたのだ。まるで、手に触れている部分以外、実体が存在していないかのような、頼りない感触。
「……なぁ、圭。このおにぎり、なんか味、薄くないか?」
「は? いつも通りだろ。お前、高松凛に会ってから脳がバグったんじゃないのか」
圭は笑い飛ばすが、俺には確信があった。凛の警告通りだ。俺があの事故を「デバッグ」したせいで、世界の解像度が落ち始めている。
「……倫くん、あんまり根を詰めちゃダメだよ」
ガレージの奥、電子工作デスクの前でハンダごてを握っていた小野瑠花が、心配そうにこちらを振り返った。
彼女は俺と凛が難しい専門用語で話し合うのを、いつも少し離れた場所で、寂しそうに見守っている。俺たちの無茶な開発を支えてくれているのは彼女だが、最近の「因果の書き換え」という異次元の話に、彼女だけが置いてけぼりにされていた。
「あぁ、ありがとう、瑠花。……お前は、体調とか悪くないか?」
「私? 私は大丈夫だけど……。でも、最近なんだか、陽ちゃんの様子が少し変なんです。私のこと、たまに知らない人みたいに見ることがあって……」
瑠花が不安げに視線を落とす。俺は息を呑んだ。陽は、あの事故の「修正対象」だった。
因果の書き換えによって命を救われた彼女は、解像度が落ちつつある世界の中で、最も不安定な存在になりつつあるのかもしれない。
「……なぁ、瑠花。もし、この世界がまるごと作り変えられるとしたら、お前はどうしたい?」
唐突な俺の問いに、瑠花は目を丸くした。
少しの間、彼女は自分の細い、お茶を淹れることしかできない指先を見つめてから、絞り出すような声で呟いた。
「えっ……? そうですね……。私、凛ちゃんみたいに何か特別な力があったら、倫くんの力になれたのかな、って。……もっと強く、男の子みたいに堂々としていられたら、倫くんたちの『共犯』の輪の中に、私も入れてもらえたのかなって……。なんて、変なこと言っちゃいましたね」
彼女の何気ない、けれど、この「異常な日常」の中で疎外されたゆえの切実な願い。
それが、崩壊を始めた世界にとっての「書き換え命令」になるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。
窓の外では、2026年の横浜の空が、一瞬だけ4色カラーのように粗く明滅した。




