救ったはずのヒロインの指が、ありえない方向に曲がっている。
翌朝。横浜の空は、呪わしいほどに透き通った青だった。
俺はガレージを出て、山手の坂道を下っていた。昨夜、あの歩道橋の上でストップウォッチを押し、俺は一通のLINEで過去を上書きした。その結果がどうなったかを確認するために、俺の足は自然と彼女の職場付近へと向かっていた。
「……あ」
ビルの入り口。自動ドアから出てきた桐谷萌の姿を見つけ、俺は足を止めた。
彼女の手には、昨夜のような震えはない。顔色も良く、誰かとスマートフォンで事務的な連絡を取り合っている。どうやら俺の「ヒント」は正しく機能し、彼女のミスは未然に防がれたらしい。
「浅野くん?」
俺に気づいた萌が、こちらに歩み寄ってくる。その表情は晴れやかで、昨夜の悲痛な面影はどこにもない。
「おはよう。……昨夜は、その、ありがと。変な相談に乗ってもらっちゃって」
「昨夜? あぁ……。まぁ、大したことじゃない」
俺は素っ気なく答える。だが、俺の胸の奥には、正体不明の冷たい感触が広がっていた。
彼女は「相談したこと」は覚えている。だが、「ミスをして絶望したこと」は記憶の彼方へ消え去っている。俺だけが、彼女が流すはずだった涙と、その震える指先の感触を、この世界で唯一の遺物として抱え込んでいる。
「おかげで、大事なメールも無事に送れたし、編集長にも褒められちゃった。……なんだか、不思議。送る直前に、浅野くんからメッセージが来るなんて。予知能力でもあるの?」
彼女は冗談めかして笑う。その笑顔が、今の俺には、薄氷の上に描かれた絵画のように危うく見えた。
「……ただの勘だよ」
俺は彼女の視線から逃げるように、空を見上げた。2026年の空。ドローンが規則正しくグリッドを描き、AR広告が現実の風景にパステルカラーの嘘を塗り重ねている。
その時、俺の視界の端に、奇妙なノイズが走った。
「……?」
一瞬、本当に一瞬だけ、みなとみらいのビル群が、砂嵐のようにザラついた。
萌の背後にある街路樹の葉が、現実にはありえない速度で変色し、元に戻る。
「浅野くん? どうかした?」
彼女が小首を傾げ、髪を耳にかける。その時、俺は「それ」を見てしまった。
彼女の左手の小指。
第一関節から先が、物理法則を無視した角度でカクりと外側に曲がっている。骨折でも脱臼でもない。まるでデジタルデータの座標設定を間違えたかのように、肉体が不自然な形で固定されていた。
「……桐谷、その指」
「え? 指がどうかした?」
彼女は自分の左手を見つめるが、何もおかしいところはないと言わんばかりに小指を動かしてみせる。だが、俺の目には、彼女が指を動かすたびに周囲の空間に小さな黒いノイズが散るのが見えた。
彼女自身には、この欠損が認識できないのだ。
「……いや、何でもない。……打ち合わせ、頑張れよ」
「うん、ありがと。じゃあね」
彼女は軽く手を振って、雑踏の中へと消えていった。遠ざかる彼女の背中を見送りながら、俺は寒気を覚えた。
「観測ログ、更新」
背後から、聞き慣れた冷徹な声がした。
振り返ると、そこにはいつの間にか高松凛が立っていた。彼女の手には、あのワンダースワンのような端末。モノクロの液晶画面が、2026年の鮮やかな日光の下で、不気味なほど黒く沈んでいる。
「現実は、少しずつ薄皮を剥がされるように変質しているわ。浅野くん、あなたが彼女に与えたのは、救いではない。世界線が本来辿るべきだった痛みの代わりに出現した、レンダリングエラーよ」
「……指のことか」
「そう。本来彼女が流すべきだった涙というリソースを、あなたは強引に別のデータへ書き換えた。その際に出た余剰なバグが、彼女の末端……小指に蓄積されたのよ。これは予兆に過ぎないわ。次にあなたが大きな改変を行えば、次はもっと致命的な何かが崩れる」
凛は栞のような端末をポケットにしまい、俺を冷たく射抜いた。
「やり直しは、ほどほどに。彼女の指が元に戻ることは、もう二度とないのだから」
潮風が、昨日よりも少しだけ、鉄の匂いを強く含んで吹き抜けた。
2026年、5月。書き換えられたはずの幸運の裏側で、俺たちの知らない代償が、音もなく蓄積され始めていた。




