桐谷萌の指先
「……やっぱり、もう『戻って』はいないのね」
ガレージの奥、薄暗い作業灯の下で、高松凛が俺のスマートフォンを覗き込みながら淡々と告げた。画面には、俺が送信した覚えのない自分宛てのメッセージが、奇妙なフォントで並んでいる。
『15時45分:萌の右側を歩け』
「意識が丸ごと過去へダイブする……あの『銀色の奇跡』は、もう終わったのよ。今のあなたがやっているのは、過去の自分に『ノイズ』を混ぜて、無意識の選択を微調整しているに過ぎない。いわば、ログの書き換え……ログ・リープね」
凛の言葉が、冷たく俺の胸に突き刺さる。俺はテーブルの上で、深い青色に染まりきったストップウォッチを見つめた。
「同じことだろ。結果として、みんな助かってる。萌のミスも回避できたんだ」
「同じなわけないでしょう。人間の意識という膨大なデータを過去の座標へねじ込むには、デバイスに相応の『空き容量』が必要なの。 あなたが陽を救い、因果を大きく歪めたせいで、システムはこの世界を維持するだけで手一杯。もう、あなたの魂を運ぶだけの余力は残っていないわ」
凛は冷笑を浮かべ、ガレージの壁に投影されたARディスプレイを指差した。そこには、横浜の街のレンダリングデータが映し出されている。だが、よく見ると、特定の区画だけテクスチャが剥がれ、紫色のノイズが走っていた。
「書き換えれば書き換えるほど、世界の『解像度』は落ちていく。今のあなたのリープは、不完全なパッチを無理やり当て続けているようなもの。見てなさい。もうすぐ、あなたの目にも見え始めるわ。世界が、あなたの『嘘』を処理しきれなくなっている証拠が」
凛がそう言った瞬間、俺の視界がぐにゃりと歪んだ。ガレージの床にあるはずの油染みが、一瞬だけデジタルな文字列に変わり、すぐに元に戻る。
「……っ、今のは」
「デバッグの限界よ。浅野くん、あなたは『ログ』を送ることで過去の自分を操っているけれど、それは過去のあなたの自由意思を殺しているのと同義だわ。メッセージを受け取って機械的に動かされた過去の自分は、本当にあなた自身だと言い切れる?」
俺は答えられなかった。俺が送ったLINE一言で、過去の俺は理由もわからず右へ曲がり、誰かの手を掴む。その瞬間、過去の俺が持っていたはずの「未来」は消え、俺が望む「正解」へと上書きされる。
「ねぇ、倫くん! 休憩にしよ? 涼くんがアイス買ってきてくれたよ」
ガレージの扉が勢いよく開き、陽が元気よく入ってくる。その後ろには、一度目の世界で自暴自棄になっていたはずの涼が、照れくさそうにポリ袋を提げて立っていた。
「よぉ、倫。……なんだよ、高松さんもいたのか。お前ら、いっつも二人で難しい顔してんな」
涼の屈託のない笑顔。俺が救った、はずの日常。
だが、俺の目には、涼の輪郭が微かに「二重」に見えていた。まるで、本来存在したはずの「死んだ涼」の影が、今の彼にへばりついているかのように。
「……あぁ、悪い。今行く」
俺は立ち上がり、足元の感覚がひどく頼りないことに気づく。床を歩いているはずなのに、まるで作り物のスタジオセットの上を歩いているような、薄暗い違和感。
「倫くん、顔色が悪いよ? 大丈夫?」
陽が心配そうに顔を覗き込んでくる。その瞬間、俺は見てしまった。陽の瞳の奥、茶色の虹彩の向こう側に、一瞬だけ走った「System Error」の文字列を。
「……っ!」
俺は陽の手を跳ね除けるようにして、ガレージを飛び出した。
外の空気は、5月とは思えないほど冷たく、そして不自然なほど澄んでいた。見上げた横浜の空、AR広告のホログラムが美しく舞う向こう側で、雲の形が等間隔でループしているのが見える。
ポケットの中のストップウォッチが、ドクン、と心臓のように脈打った。
青い筐体は、もはや光を反射しないほど深く、暗い色に沈んでいる。
「まだだ……まだ、壊れてない」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
意識を運べないなら、言葉で変える。言葉が届かないなら、世界を削ってでも届かせる。
だが、俺が自分宛てに送ったLINEの履歴が、暗い画面の中で嘲笑うように光っていた。
俺が救ったはずの世界は、その一文字一文字の代償として、少しずつ、着実に、崩壊へのカウントダウンを始めていた。




