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第9話 ひとりの夜

 翌朝、アイシャは寝不足のまま経理部に出勤した。


 夜明けまで眠れなかった。唇の温もりが、頭の中で何度も繰り返された。「アイシャ」と呼ぶ声が、耳の奥で響いていた。けれどそれと同時に、別の決意が、彼女の胸の奥で硬くなっていた。


 王陛下をお守りしなくてはいけない。


 そのために必要なのは、香料の流れを示す確かな証拠だった。経理部の照合で見つけた数字の異常は、自分の感覚を裏付けるには十分だった。けれど誰かに訴えるとなれば、もっと直接的な証拠がいる。香料部の倉庫の奥にある納品台帳。それを見れば、納品の出所と、最終的な使用経路が、一気にはっきりするはずだ。


 机に向かいながら、アイシャは香料部の構造を頭の中で組み立てた。

 香料部は経理部と違って、文官の出入りが厳しく管理されている。日中は警備が厚いが、夜間は極端に薄くなる。倉庫の鍵は、副管理職の机の引き出しに簡素にしまわれている、という話を、以前マルジャナがそれとなく教えてくれたことがあった。


 文官として活動できる残り時間は少ない。


 ──今夜、決行するしかないわ。


 王宮の閨係は、体調不良を理由に、欠席を届け出た。本当の体調はどうあれ、その嘘さえ通せば、王宮の侍従府は形式通りに処理してくれる。


 ※※※


 夜、王宮の通用門を抜けたアイシャは、いつもの侍従府への道とは違う方角に足を向けた。


 王宮の北側、香料部の倉庫が並ぶ一画は、夜になると人気がなくなる。月の光だけが回廊を照らし、彼女の足音だけが闇に響いた。文官の制服のまま、けれど眼鏡を外し、髪を解いて頭からかぶせた布で顔を隠した。万一誰かに見られても、すぐに身元を特定されないように。


 副管理職の執務室の鍵は、彼女が以前耳にした通り、机の引き出しの一番上に簡素にしまわれていた。経理部の文官として副管理職に届ける書類があったときに、引き出しの位置だけは確認しておいた。アイシャは音を立てずに引き出しを開け、鍵を取り出した。


 倉庫の扉。

 鍵穴に差し込み、回す。

 かちり、と小さな音がして、扉が開いた。


 倉庫の中は、薬草の香りで満たされていた。乾いた草、樹脂、油、蜜蝋。さまざまな香りが層をなし、息を吸うとわずかに頭が重くなる。手燭の灯りを最小限に絞り、棚の間を進んだ。


 ラスターラの納品台帳は、奥の棚にあった。


 アイシャは台帳を引き出し、近くの作業卓に広げた。手燭の灯りで一ページずつ確認していく。半年分の納品記録が、整然と並んでいた。経理部で見た数字と、台帳の記載が、一つずつ一致していく。


 そして、決定的な記述を見つけた。


「侍従府発注、王の寝具用薫香、月次。発注者──ハサーン家」


 アイシャの指先が、止まった。


 ハサーン家。

 自らの家の名が、そこにあった。


 何度、目を疑っても、書かれている字は変わらなかった。ハサーン家が、王の寝具用の薫香を、香料部に発注している。微量のラスターラを含んだ薫香を、月ごとに、半年以上にわたって。王陛下を蝕んでいる陰謀に、我が家が関係している。


 胸の奥が、冷たく沈んだ。

 継母の縁談の押し付けも、家督継承の話も、すべて、もっと深い何かの一部だったのではないか――そんな疑念が、一気に湧き上がる。


 けれど、考えるのは後だ。

 今は証拠を持ち帰る。


 アイシャは小さな紙片を取り出し、震える手で必要な箇所を書き写し始めた。発注者の記録、発注日、品目、量。半年分のすべてを、自分の数字の癖が出ないように、慎重に。書き写し終えた瞬間、足音が聞こえた。


 息を止め、手燭の火を咄嗟に消す。

 台帳を素早く元の位置に戻し、棚と棚の間の影に身を寄せる。


 足音は、ゆっくりと近づいてきた。

 一人。

 忍び足ではない。けれど、慎重な歩み。


 アイシャの心臓が、耳の奥で打った。

 誰だ。警備の者か。香料部の夜番か。それとも──。


 足音が、彼女のすぐ近くまで来た。

 止まった。


 見つかってしまったのだろうか。逃げるしかない。飛び出ようとした瞬間。


「姉さん」


 囁き声が聞こえた。よく知っている声だった。


「僕だよ。ラシードだ」


 アイシャは、棚の影からゆっくりと顔を出した。手燭の灯りが、一つ揺れていた。

 ラシードが、片手に灯りを掲げて立っていた。その顔は、青ざめていた。


「ラシード、なぜ」

「説明はあとで。早く出よう」


 ラシードは、アイシャの腕を取った。手の力が、いつもより強かった。手首に、爪が食い込みそうなほど。けれどアイシャは、痛みより驚きの方が大きく、抵抗できなかった。


 倉庫の鍵を元の場所に戻し、二人は王宮の北側の暗がりに出た。

 ようやく、ラシードはアイシャの手首を離した。彼の声は震えていた。


「姉さん。こんなところで何してたの」

「ラシードこそ」

「香料部の倉庫なんて、夜中に一人で入る場所じゃないよ」


 ラシードの声は、低かったが、抑えきれない感情が滲んでいた。

 彼は息を整えるように、何度か深く呼吸した。


「姉さんが香料部の倉庫に忍び込むって、ドゥンヤから聞いて」

「ドゥンヤから?」

「あまりに無茶だからってドゥンヤが僕に言いに来てくれたんだ。心配で、捜しに来た」


 ドゥンヤが、ラシードに言いに来た? アイシャは戸惑った。ドゥンヤがラシードをそれほど信頼していたとは、知らなかった。


「説明してください、姉さん。なぜ、こんな危ないことを」


 ラシードの目には、怒りと心配が同居していた。しかし、アイシャは、何も答えられなかった。

 香料の異常を発見したこと、それを王陛下に届けたいこと、自分は文官として宮廷の何かを暴こうとしていること――どれも、ラシードに告げてはいけない気がした。彼を巻き込めば、彼自身の身も危うくなる。それに、ハサーン家の名前が出てきた以上、ラシードには絶対に話せない。彼もまた、家の人間だ。陰謀と繋がっている可能性も、ないとは言い切れない。


「ごめんなさい、ラシード。今夜のことは、忘れて」

「忘れられるわけ、ないだろ」


 ラシードの声が、上ずった。


「姉さんに、何かあったらと思ったら、僕は」


 そこで、ラシードは言葉を切った。と、アイシャの身体が急に引っ張られた。気づけば、ラシードに抱きすくめられていた。腕から、震えが伝わってくる。

 

「とにかく、今夜は屋敷に帰って。これ以上、こんな真似はしないと約束して」

「ラシード、私は」

「約束して。約束するまで、離さない」


 ラシードの声が、強くなった。アイシャは、頷くしかなかった。この義弟は、優しそうに見えるが、とても頑固だ。言うことを聞くまで、私を放さないだろう。


 ラシードはしばらくアイシャを強く抱きしめたままだったが、やがて深く息を吐くとアイシャの手を強引に奪い、歩き始めた。


 屋敷に着いた頃には、身体が重かった。緊張と恐怖が解けた瞬間、身体が悲鳴を上げ始めた。額に手を当てると、熱があった。倉庫の薬草の香りに当てられたのか、心労が積もっていたのか、両方だったのか。


 部屋に戻るなり、ドゥンヤの顔が青ざめた。


「お嬢様、お顔が真っ青です」

「ドゥンヤ、寝かせて。明日のことは、明日考えるから」


 紙片を、寝台の枕の下に押し込んだ。それだけは、誰にも触れさせてはならなかった。ドゥンヤが寝衣に着替えさせてくれる頃には、アイシャは半ば意識を失いかけていた。

 

 その夜、彼女は深い熱の底に沈んだ。


 ※※※


 熱は、三日続いた。


 その間、アイシャは寝台から動けなかった。経理部にはドゥンヤから欠勤の連絡を入れてもらった。マルジャナは「ゆっくり休んで」と返事をくれたらしい。ラシードは、何度か部屋に見舞いに来てくれた。


 四日目の朝、ようやく熱が下がった。身体は重かったが、ようやく寝台から身を起こせるようになった。そのとき、ドゥンヤが青ざめた顔で部屋に入ってきた。


「お嬢様」

「どうしたの、ドゥンヤ」

「先ほど経理部の方へご連絡したのですが」

「ええ」

「お嬢様は文官を、お辞めになったと」


 アイシャは、最初、ドゥンヤが何を言っているのか理解できなかった。


「お辞めに、って?」

「辞職届が提出され、すでに受理されているそうでございます。おそらくラビーナ様が、お嬢様が寝込んでいる間に出されたのかと」


 ドゥンヤの声が、震えていた。


 アイシャは、ゆっくりと寝台から身を起こすと、枕の下に手を入れた。指先が、固く折りたたまれた紙片に触れた。これがあれば、陛下を救えるかもしれない。誰が、いつから、何のために――その第一の手がかりが、ここにある。けれど。


 私には、もう、何もできないんだわ。


 文官の任は解かれた。経理部には戻れない。寝所にも上がれない。閨係は王宮の文官としての身分の上に成り立っていた。文官でなくなった瞬間、夜伽係の任も失われる。


 宮廷に届けようにも、誰に届ければいいのか。王陛下にも、御典医にも、伝手はない。辞職した文官の女の言葉に、誰も耳を貸さないだろう。むしろ、訴え出れば、平民の女の戯言と一蹴されるか、さもなくば陰謀の側の手によってすぐに揉み消されてしまう。


 ラシードに頼むこともできない。彼を巻き込めば、彼の身も危うくなる。何より、証拠の中にハサーン家の名がある。家の人間であるラシードを、これ以上この件に近づけるわけにはいかなかった。


 王陛下にお伝えする手段は、もう残されていない。私にできることは、何もないんだわ。


 涙が、頬を伝った。


 ドゥンヤが、静かに肩に手を置いた。


「お嬢様」

「ドゥンヤ」

「これからどうなさいますか」


 アイシャは、答えられなかった。

 ドゥンヤが、上掛けを直してくれた。


 アイシャは、枕の下の紙片に、もう一度指先で触れた。誰の目にも触れさせず、届けず、枕の下で、ただ眠らせておくしかない紙。それは、自分自身の運命の縮図のようだった。


 目を閉じると、瞼の裏に、シャハリヤール王陛下の寝顔が浮かんだ。

 最後に見た、穏やかな寝顔。王陛下は、深く眠れているのだろうか。


 涙が、また、こぼれた。

 止まらなかった。

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