第8話 夜伽係の困惑
「アイシャ=ルーン、参上いたしました」
「来たか」
寝室に響くシャハリヤールの声は、いつもよりわずかに柔らかかった。アイシャがいつもの椅子に腰を下ろし、卓の本に手を伸ばそうとすると、柔らかな声が降って来た。
「今夜も、お前の話を聞かせろ」
え、とアイシャは思った。
昨夜の続きを、今夜も?
「あの、でも、本の続きが」
「本は、いずれ読む。今夜は、お前の話を」
シャハリヤールの黄金の瞳、じっとアイシャを見ていた。
「子供の頃の話の続きでもよい。あるいは、別の話でも」
そして寝台に身を横たえた。横向きに、いつもの位置で。アイシャの顔が見える位置で。
アイシャは、戸惑いながら、ぽつぽつと話し始めた。母が死んだ後、柘榴の木がしばらく実をつけなかったこと。十歳の頃、初めて自分一人で本を最後まで読み通したのが嬉しくて、ドゥンヤに語って聞かせたこと。
「ドゥンヤ?」
王が口を挟んだ。
「あ、はい、わたくしの侍女で」
「侍女?」
シャハリヤールは、わずかに眉を上げた。町人の出の女に、侍女がいる。それは、矛盾だった。
アイシャは、しまった、と思った。
「あ、あの、ドゥンヤは元々王宮の侍女をしていた近所のおばさんで」
慌てて取り繕った。苦しい言い訳だった。
シャハリヤールはじっとアイシャを見ていた。その視線は、彼女の取り繕いを見抜いているようでもあり、けれど、それを追及する気配はなかった。
「そうか」
短く言った。それ以上は、問わなかった。
アイシャは、彼が知らぬふりをしてくれている、と感じた。それと同時に、申し訳なさが胸を突いた。私は、この方に嘘をつき続けている。それは、王陛下を蝕んでいる人たちと、何が違うのだろう。
アイシャは話を続けた。ドゥンヤと一緒に過ごした時間の話、母の本棚の話、夏になると出かけた近くの小川。語るうちに、自分の声が、少しずつ落ち着いてきた。寝室の空気が、いつものように、柔らかく彼女を包んだ。
語りながら、アイシャの胸の奥には、もう一つの想いがずっと引っかかっていた。
──王陛下に、伝えなければいけない。文官の任を、もう続けられないことを。継母の決定により、経理部には今月中に辞職願を出して、来月には社交界に戻ることになるだろう。王宮の文官でなくなれば、ただの平民と見なされ、夜伽係も退くことになる。つまり、この夜は、まもなく終わる。
けれど、声が出なかった。王陛下は今、彼女の話を穏やかに聞いている。寝台に横向きに身を預け、彼女の顔を見ながら、まどろみの兆しを見せ始めている。
その穏やかな空気を、自分の口で壊さなくてはいけないなんて。
アイシャは、何度も口を開きかけた。そのたびに、別の話が口から出た。肝心の話だけが、喉の奥で固まっていた。──次の節目で、伝えよう。そう自分に言い聞かせた。
けれど、次の節目が来ても、また言葉を選び損ねる。放そうとすると、喉の奥がつまるような気がした。
そして、身振り手振りを交えて、秋祭りの思い出を語っているとき、王が水差しに手を伸ばした。瞬間、二人の指が、わずかに触れた。
ほんの一瞬だった。けれど、アイシャの胸は早鐘のように鳴った。王陛下の指は、温かく、そして、思っていたより、ずっと骨ばっていて、力強かった。頬がかっと熱くなるのが分かって、慌てて手を引いた。
「申し訳ございません。王陛下」
彼の方を見られなかった。
「いや、いい」
声が、いつもより低く響いた。アイシャは、視線を上げられないまま、頷いた。
こんなことで、恥ずかしがっているだなんて。ばかみたい。王陛下は私のことなんてなんとも思っていないのに。
しかし、寝室の空気は、明らかに変わっていた。さっきまでの柔らかさとは違う、もっと密度のある、何かを孕んだ空気だった。
シャハリヤールは、わずかに口を開いた。
「アイシャ」
「は、はい」
彼の黄金の瞳が、わずかに細くなった。
「私の事は、シャハリヤールと」
え、とアイシャは思った。そんな。王陛下のお名前を呼ぶなんて。
「王陛下、それは──」
「命令だ」
王は短く言った。
けれどその声には、いつもの命令の硬さはなかった。
夢の縁にいる男の声だった。
アイシャは、口を開きかけて、閉じた。何と答えればいいのか、分からなかった。恐れ多い。それに、まもなく会うこともなくなる相手だ。
アイシャが黙っていると、シャハリヤールは、目を閉じかけ――そして、ふいに腕を伸ばした。長い指が、アイシャの頬に触れた。
アイシャは、固まった。
彼の指が、彼女の頬から、顎に下りた。顎を、わずかに、上に向けた。そして、上体を少しだけ起こし――アイシャの唇に、自分の唇を、重ねた。
時間が、止まった。
唇は、温かかった。ほんの一瞬の、軽い、触れるだけの口づけだった。けれど、アイシャにとっては、永遠にも感じられた。
シャハリヤールがゆっくりと、唇を離した。そしてそのまま、再び枕に頭を預けた。半開きだった目が、ゆっくりと閉じていく。
「シャハリヤール、と」
最後に小さく呟き、そして、深い眠りに落ちていった。
アイシャの頭の中は、真っ白になっていた。
え。
え。
今のは何。
王陛下が私に口づけをされた? それとも、偶然、唇が触れ合っただけ?
王の気まぐれなのか。半分眠っている状態での、無意識の動作なのか。夢を見ていたのか。混乱の中で、いくつもの考えが渦巻いた。
さっきの一瞬の接触が、何度も頭の中で繰り返された。王陛下の指が頬に触れたときの、熱。唇が重なったときの、温もり。「アイシャ」と呼ぶ声。
アイシャは、首を何度も振った。
頬が、燃えるように熱かった。
──私、何を考えているの。しっかりしなきゃいけないのに。
ガリーブ家の長男との縁談。
ハサーン家の娘としての義務。
王陛下を蝕んでいる、誰かの陰謀。
そして、陛下の、熱。
すべてが、一つの大きな渦のように彼女の心に押し寄せていた。
アイシャは、卓の本を、震える手で閉じた。栞を、いつものページに丁寧に挟んで。本を卓に置いた。そして、寝台で眠る彼の顔を、もう一度見た。
寝顔は、穏やかだった。今夜、彼を眠らせたのは、自分の声だった。その声で語った、自分の話だった。その同じ唇に、彼は、口づけをした。
アイシャは思わず、指で自分の唇をなぞった。心の奥で、温かな思いが込み上げてきた。今夜の口づけが、何の意味を持つにせよ、私は王陛下をお守りしなければならない。何かをしなければならない。いえ、何かをしてさしあげたい。
それが臣下として、夜伽係の自分として、できる唯一のことだった。
家からの圧力に屈する前に、自分が消される前に。
その日の夜。
まるでシャハリヤールの不眠が乗り移ったかのように
彼女は眠れなかった。




