第7話 ある陰謀
その朝、アイシャが経理部に出勤すると、机の上に新しい書類の束が積まれていた。
「アイシャちゃん、悪いんだけど」
マルジャナの声に振り向くと、彼女は申し訳なさそうに眉を下げていた。
「これ、半年分の香料部の納品記録の照合なんだけど、今月中に終わらせなきゃいけなくて。手伝ってくれない?」
「もちろんです」
アイシャは頷いた。地道で手間のかかる作業だが、彼女はこういう仕事が嫌いではなかった。むしろ、数字に向き合っている時間は、宮廷の喧騒からも、寝室の重みからも、少しだけ離れていられる時間だった。
午前中は順調に進んだ。
昼の鐘が鳴る頃、アイシャの手が、ある一点で止まった。
ラスターラ、と呼ばれる薬草。
鎮静と眠りに作用する草。
その納品が、過去半年で十二回。
しかも、ばらばらの名目で。
「香料部備品」「侍従府消耗」「薬草部研究」「儀式用備品」、といった具合に。
量は一回あたり微量だが、合計すると相当な量になる。
そして、最終的な使用先を辿っていくと、ある一点にすべてがたどり着いた。
王の寝所。
アイシャの指先が、わずかに冷たくなった。ラスターラは、本来、不眠の治療に使われる薬草だ。少量を長期間使えば、確かに眠りを助ける。けれど、過剰に使えば逆効果になる。眠りを浅くし、夢を乱し、長期的には精神の安定を損なう。これは経理部の仕事を続けるうちに、自然に身についた知識だった。
王の寝所向けに、こんなに大量のラスターラが、複数の名目に分散して納品されている。通常の薫香としての使用なら、こんな分散は必要ない。香料部の一括の名目で済むはずだ。なのに、わざわざ複数の経路に分けている。
これは、誰かが意図的に隠しているのではないか。
アイシャは、もう一度、書類を見直した。
名目の分散の仕方、納品の周期、最終使用先の追跡経路。すべてが、注意深く設計されていた。一つひとつの納品は微量で、単独では誰の目にも留まらない。けれど、半年分を一覧にして照合すると、はっきりと一つの線が浮かび上がる。
誰かが、王の眠りを意図的に妨げている。
──まずいわ、これ。
アイシャの背中に、冷たい汗が浮かんだ。
これは、ただの経理の問題ではない。王の身体に関わる、もっと深いところの何かだ。そして。これを誰かに相談したら、私が消されるかもしれない。宮廷の影で、何かが動いている。これを仕組んだ人間は、間違いなく宮廷の奥深くにいる。経理部の文官が気づいたと知れば、その人間は迷わず私を消すだろう。
アイシャは、深く息を吐くと、書類を何食わぬ顔でいつもの場所に戻した。
「アイシャちゃん、お昼食べに行こう」
マルジャナが声をかけてきた。
「あ、はい」
中庭の隅でいつものように昼食を取りながら、アイシャは何度も口を開きかけた。マルジャナに、それとなくラスターラのことを聞いてみたかった。けれど、聞けなかった。もしマルジャナがすでに気づいていたら、彼女まで巻き込むことになる。いや、あるいはマルジャナが、このことに関与していたら?
「アイシャちゃん、何か、考えごと?」
マルジャナが、こちらを覗き込んだ。紅い瞳が、いつものように静かにアイシャを見ていた。
「いえ、別に」
「何か、困ったことがあったら、私に相談してね」
「先輩……」
「あなたの元気がないと、私がひどい目にあうっていうか。面倒なことになるのよ」
「なんですか、それ……」
アイシャは、その視線の意味を測りかねて思わずマルジャナを見返した。しかし、マルジャナは笑ってごまかして、答えてはくれなかった。
アイシャは午後、机に戻ると、もう一度書類の束に手を伸ばした。そして、自分の数字の癖を残さないように、慎重に、最初の発見の証拠だけを別の紙に書き写した。書き写した紙は、自分の机の引き出しの一番奥、誰も気づかない場所に隠した。
※※※
屋敷に戻ったのは、すっかり日が暮れた後だった。
裏木戸からそっと中に入り、廊下を抜けて自分の部屋へ向かう。普段なら、屋敷の家族とは顔を合わせない時間帯だ。療養令嬢として「伏せっている」ことになっているアイシャは、普段から家族の前にもあまり姿を現さない。
部屋の戸を開けると、ドゥンヤが立って待っていた。
「ドゥンヤ、今、帰っ──」
アイシャの声が、途中で止まった。部屋の長椅子に、見慣れた人影が腰掛けていた。継母――父の後妻のラビーナだった。
「アイシャ。やっと、戻りましたね」
ラビーナの声は、いつものように甘く、しかし芯にぴんと張ったものを感じさせた。彼女の手には、冷えた茶器があった。アイシャを長く待っていたことが、その茶器の温度から分かった。
「ラビーナお母様」
アイシャは咄嗟に文官の装いを隠そうとして、外套をきつく抱え込んだ。けれど、眼鏡をかけ、髪を結いあげた姿を、ラビーナはすでに見ていた。
「文官の装い、お似合いよ、アイシャ」
ラビーナの声は微笑んでいた。けれど目は、笑っていなかった。
「ラビーナお母様、これは──」
「弁解はいいわ。あなたが半年前から、文官として王宮に通っていることは、知っていました。ドゥンヤの口は、堅かったけれどね」
ドゥンヤがわずかに目を伏せた。アイシャは、ドゥンヤを庇うように一歩前に出た。
「ラビーナお母様、ドゥンヤを責めないで。私が無理に頼んだの」
「ドゥンヤを責める気はないわ。私が問題にしているのは、あなたよ、アイシャ」
ラビーナは茶器を卓に置いた。細い指。整った爪。これだけ静かな仕草の中に、強い意志がこもっていた。
「お母様……」
「来月、ガリーブ家の長男との縁談の場を設けます。あなたは社交界に戻り、令嬢として振る舞い、縁談に応じなさい」
がつんと頭を殴られたような衝撃が走った。
ガリーブ家。高位貴族の中でも、王家にとりわけ近い家柄だった。長男は確か三十代、これが二度目の妻取りで、前妻は数年前に病死している。子供はすでに数人おり、跡取りはほぼ決まっている。つまり、後妻として迎えられ、家の利益のため、いいように使われるということだ。
「そんな。お母様。お願いです!」
アイシャは、思わず小さく悲鳴を上げた。
「アイシャ。私はこれまで、あなたのお遊びを黙認してきました。けれど、二十歳を過ぎれば、嫁ぎ口の値打ちは下がる一方。これ以上待つわけにはいかないの」
冷たい、しかし揺るぎない声だった。
「私、文官の仕事を続けたいんです」
「文官など、ハサーン家の令嬢がする仕事ではありません」
「お父様は、私の意志を尊重してくださると」
「お父様は、家のことは私に任せると、おっしゃっています」
ラビーナは立ち上がった。背の高い彼女は、アイシャを見下ろす形になる。アイシャは、半歩、後ずさった。
「アイシャ。あなたは、貴族の娘。家のために、生きるのが義務」
「私は──」
「この件は、もう決まっています」
ラビーナはアイシャの肩に手を置いた。母娘の親しさを装う仕草に、有無を言わせぬ力がこもっていた。
「来週、仕立屋を呼びます。社交界に出るための装いを整えなさい。それから、医師に診せて、もう悪いところはないと診断書を出してもらいます。それまでは、文官としての出仕も、好きにしていいわ」
「お母様、お願いです」
「アイシャ」
ラビーナの声が、わずかに低くなった。
「あなたが拒めば、ドゥンヤは家を出ることになります。長年お父様のお世話をしてきた侍女を、あなたの我儘で路頭に迷わせるおつもり?」
アイシャは、固まった。
ドゥンヤを人質に取られている。
それは、ラビーナにとって最強の手札だった。
「……分かりました。経理部には退職届を出します。でも、もう少し待ってください。きちんと引継ぎをしてからでないと」
アイシャは、ようやく声を絞り出した。
「物分かりがよくて、嬉しいわ」
ラビーナは満足げに微笑んだ。
「では、おやすみなさい、アイシャ」
ラビーナは部屋を出ていった。
戸が閉まる音が、やけに大きく響いた。
ドゥンヤが、震える声で言った。
「お嬢様、申し訳ありません、私が」
「ドゥンヤ。あなたは何も悪くないわ」
アイシャは首を振った。けれど、自分の声も震えていた。
寝台に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
全身から、力が抜けていく。
縁談、ガリーブ家、家のための後妻。
文官の仕事も、諦めなければいけない。
そして、何より──王陛下の傍には、いられない。
アイシャの胸が、鋭く痛んだ。そして、すぐに首を振った。こんな気持ちは、持ってはいけない。私は、王陛下のただの本の読み聞かせ係。それ以上の何かを望める身分ではない。
「お嬢様、今夜は、王宮に行かれますか」
ドゥンヤが小さく尋ねた。
アイシャは、顔から手を離した。
「行くわ。最後まで、務めを果たさなければ」
最後まで。その言葉が、自分の中で別の意味を持つことに、彼女は気づいていた。
香料の異常。家からの呼び戻し。残された時間はわずかだ。自分はもう、四方から追い詰められている。
でも、せめて最後に、あの方のためにできることをしなくては。
アイシャは、屋敷を抜け出した。




