第6話 シャハリヤールの朝
頭の中の靄が晴れている。書類の文字が、しっかりと目に入る。指先の震えがない。三年間、当たり前の朝の感覚を忘れていた。それが今、戻りつつあった。
あの女が来てから深く眠れるようになった。これほどの回復は、御典医の薬も、秘伝香のどれも、実現しなかったものだった。
シャハリヤールの執務机の前に、ジャファルが控えていた。
「陛下、あの女の身上調査ですが」
シャハリヤールは、書類から顔を上げた。
「申せ」
「経理部のアイシャ=ルーンは、文官試験を半年前に受けて合格、そのまま経理部に配属されております。年齢は二十、家は東地区の町人の出と登録されております。両親は早くに亡くなり、現在は親類の元に身を寄せているとのこと」
シャハリヤールは黙って聞いていた。
「文官登録の経歴に、特に怪しい点は見つかりませんでした。試験の成績は優秀、特に算術と古典の分野で抜きん出ております」
「古典?」
シャハリヤールは、わずかに眉を上げた。町人の出の女が、古典を学んでいるというのは珍しい。しかし、あり得ないことではない。文官試験を受ける町人の中には、私塾で熱心に学ぶ者もいる。よほど裕福な町人だったのか、教養ある両親のもとに生まれたのか。そう言えば、あの女の立ち居振る舞いには、どこか育ちの良さを感じさせるものがある。シャハリヤールは自分でも気づかないうちに口元を緩めた。
「経理部での評判は、丁寧、勤勉、寡黙、というところでございます。同僚との交友も最低限、お酒の席にも出ない、噂話にも加わらない。経理部の者も彼女の仕事を高く評価しております」
「そうか」
「ただ、一点気がかりなことが」
「なんだ」
「経理部の同僚に、ラシードという男がおります。その男が、アイシャ=ルーンに対して、いささか近しい距離感を持っているとのこと」
シャハリヤールは、書類を脇に置いた。
「近しい、とは」
「先日、二人で人気のない北庭まで足を運び、長時間話し込んでおったそうでございます。経理部の者がその様子を目撃しております」
「内容は」
「分かりません。十分には聞こえなかったとのこと。ただ、男の方は、いささか感情を高ぶらせていたようです」
シャハリヤールは、机の縁を指で軽く叩いた。無意識の所作だった。気づいて、止めた。
「ラシードという男、何者だ」
「中流貴族の次男とかで、特に怪しい点はございません」
シャハリヤールは、しばらく黙っていた。
胸の奥が、わずかに、しかし確かにざわつくのを感じた。何だ、この感覚は、と自分で訝しんだ。
アイシャ=ルーンは経理部の文官だ。平民の彼女が誰と親しくしようと、彼女の自由だ。ましてや、夜伽係とはいえ、身体の繋がりなどない。ただ寝所で本を読んでいるだけだ。恋人や婚約者がいたとして、王の関知することではない。そう自分に言い聞かせた。けれど、不快な感覚は治まらなかった。
「……しばらくあの女の動向を注視せよ」
「承知いたしました」
シャハリヤールは、自分の声が、いつもより低く響いたのに気づいた。
「それから、ジャファル」
「はい」
「あの女の経理部での処遇だ。居場所を失わぬよう、それとなく釘を刺せ。直接私の意向だと匂わせるな」
「畏まりました」
ジャファルは深く一礼した。顔を上げたとき、その目には、わずかに何かを汲み取った色があった。けれど、ジャファルはそれを口にしなかった。
ジャファルが執務室を出ていった後、シャハリヤールは机に肘をついた。
町人には不釣り合いなほどの、教養を持つ文官の女。
そこにまとわりつく、男。
これは王としての警戒だ、と自分に言い聞かせた。彼女に夜の役目を負わせている以上、身辺に怪しい男がいることは、警戒すべき事態だ。それだけのことだ。それ以外の感情ではない。
※※※
その夜、シャハリヤールはいつもより早く寝所に下がろうとした。
しかし、寝所の中がざわついていることに気づいた。普段ならこの時刻、支度はとうに整い、侍従たちも控えに下がっている頃合いだ。けれど今夜は、まだ複数の足音が動き回っている。
あの女がもう着いている時刻ではないか。扉の方を見ると、果たして、隙間から、こちらを覗く気配があった。彼女が困った顔をしているのが、なぜか、シャハリヤールの胸を小さく刺した。
「お前」
シャハリヤールは声をかけた。
「は、はい」
彼女の声が、扉の隙間から返ってきた。
「いつまでそこにいる。入ってこい」
「で、ですが、お支度が」
「待っているのも面倒だ」
彼女は、少し戸惑った様子で扉を抜け、中に進んできた。侍従たちが慌てて道を空ける。彼女は卓のそばまで来て、いつものように一礼した。
「アイシャ=ルーン、参上いたしました」
彼女は伏せていた顔を上げた。今夜も、眼鏡をかけていた。装いは閨係のものではなく、簡素な白の絹。シャハリヤールは、それを彼女の選択として認めていた。彼女は夜伽係を演じる気がない。それを、シャハリヤールは内心、好ましく思っていた。
「お前」
シャハリヤールは口を開いた。
「は、はい」
「経理部の文官といったな」
突然の問いに、彼女が戸惑うのが分かった。普段、彼女が部屋に入ってきたら、すぐに本を開かせるのがいつもの流れだった。それを今夜は、自分から話しかけていた。
ジャファルの報告のせいだ、と自分に言い訳した。彼女について、もう少し知っておく必要がある。それは王の警戒の一環だ。それだけのことだ。
「どのような仕事をしている」
彼女は、少し考えた後、丁寧に答えた。
「あの、収支の整理や、各部からの報告書の集計、それから、納品記録の照合などを」
「文官としての才覚は、ジャファルからも聞いている」
これは事実だった。けれど、ジャファルから聞いた、と自分の口から告げることに、わずかな引っかかりがあった。彼女について、自分はジャファルを通じて情報を仕入れている。それは、彼女の知らないところで、彼女の身辺を探っているということだ。そう気づいて、シャハリヤールは少し気まずさを覚えた。
「畏れ多いことです」
彼女は、頬を赤らめて答えた。その仕草が、なぜか、シャハリヤールには好ましく映った。媚ではない、純粋な戸惑い。
「数字の処理が丁寧だと、上司の評があるそうだ」
彼女の頬が、さらに赤くなった。
「あ、ありがとうございます」
「で?」
シャハリヤールは、自分でもなぜそう問いを続けるのか分からなかった。
ただ、彼女の声をもう少し聞いていたかった。
「は?」
彼女が、至極、間の抜けた声を上げた。それをシャハリヤールは、可愛らしいと思ってしまった。ごまかすように質問を続ける。
「文官の仕事は、面白いか」
彼女は、少し戸惑った後、正直に答えた。
「面白いです」
「何がだ」
「数字は、嘘をつかないので。それに、合わない数字を合わせていく作業は、何といいますか、絡まった糸を解いていくような気持ちよさがあります」
シャハリヤールは、わずかに眉を上げた。
絡まった糸、か。この女は、こういう言い方をするのか。この比喩は、宮廷の文書では絶対に使われない種類のものだった。生き生きとして、しかも本質を捉えている。
「ふん」
シャハリヤールは、思わず短く声を出した。そして、口の端が上がるのを止められなかった。
彼女は、自分の言葉に王が反応したことに少し驚いた様子で、慌てて続けた。
「あの、それから、本を読むのも好きで」
ぽろりと口から出た、という様子だった。
言ってから、彼女は自分でも驚いた顔をした。
シャハリヤールはその顔を、心地よいと思った。飾らない。素直に話す。話していて、ふと自分で気づいて慌てる。こういう女は、宮廷ではほとんど見たことがなかった。
「あの夜、図書館で、お前は本のあらすじを語った。あれは、本を読まぬ者の語り方ではなかった」
シャハリヤールは静かに言った。
あの夜のことを覚えている、と彼女に伝えたかった。
「お、恐れ入ります」
「で? 好きな本は」
そう問いながら、シャハリヤールは自分の声に少し驚いていた。「好きな本は」と、王が閨で女性に問う。これほど場違いな問いがあるだろうか。けれど、聞いてみたかった。
「あの、いろいろな本が好きですけれど」
彼女は少し考えて、続けた。
「特に好きなのは、旅の本です。航海記、隊商記、それから、知らない土地の人々の暮らしを描いた本」
「今、読み聞かせている航海記も、好きな本か」
「あ、はい」
彼女の声が、ふっと弾んだ。
その変化が、シャハリヤールの胸を、なぜか掴んだ。
「子供の頃から好きで、母と一緒に何度も読みました。十二の島の話、どの島も少しずつ違っていて、それぞれの章の終わりに必ず何か学びがあるんです。子供の頃は、その学びが分からないことが多くて、母に何度も意味を聞いていました」
その瞬間、彼女の顔は、宮廷の文官の女ではなくなっていた。本のことを語る、ただの一人の女だった。若く、率直で、嬉しそうな。
シャハリヤールは、その姿に、目を奪われた。自分は、この女のこんな顔を、見てみたかったのかもしれない。
「あ、あの、申し訳ありません、つい」
彼女が、急に我に返って慌てる。
その切り替えがまた、シャハリヤールには好ましかった。
「続けろ」
我ながら、ぶっきらぼうだなと思った。
「続けろ、というのは」
「子供の頃の話だ」
彼女は戸惑った。
「あの、でも、つまらないお話ですし」
「つまらないかは、私が決める」
シャハリヤールは寝台に身を横たえた。仰向けになるつもりだった。けれど、なぜか身体が彼女の方を向いてしまった。
「本の続きは今度で良い。お前の話を聞かせろ」
そう告げると、彼女は一瞬戸惑った顔をした。
それから、頷いた。
「は、はい」
そして彼女は、ぽつぽつと話し始めた。
柘榴の木の下で本を読んだ午後のこと。母が時々、声を立てて笑ったこと。母の指がページの縁をなぞる癖のあったこと。彼女自身が、五つ目の島の話に出てくる銀色の海に憧れて、雨上がりの水たまりに銀の粉を撒こうとして叱られたこと。
シャハリヤールは、聞いていた。
そんな子供だったのか、と思った。銀色の海に憧れて、家の庭の水たまりに銀の粉を撒こうとした女の子。その姿が、目に浮かぶようだった。
そして、母のことを語る彼女の声で分かった。この娘は、母を愛していたのだ。そして、もうその母はいないのだ。両親は早くに亡くなった、とジャファルの報告にあった。
──私と同じだな。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
彼女の声が、また、頭の中の議論を静めていく。
柘榴の木の下、母の指、銀の粉。
その景色が、シャハリヤールの瞼の奥に広がっていく。
眠る寸前、シャハリヤールは思った。
──この女の声を、もう少し聞いていたい。
──この女の話を、もっと。
そして、眠りに落ちた。
深く、柔らかに。
昼間のジャファルの報告も、ラシードという男のことも、すべてが、まどろみの中に消えていった。
最後に脳裏をよぎったのは、銀色の海に憧れた女の子の、嬉しそうな顔だった。




