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第5話 いつもと違う一夜

 その夜、アイシャはいつものようにシャハリヤールの寝所へ向かった。


 侍従の見送りを受けて部屋に入ろうとすると、扉の前で何やら侍従たちがばたばたとしていた。普段はぴたりと整えられているはずの寝所の準備が、なぜか今夜は遅れているようだった。


「あの」


 アイシャが声をかけると、年配の侍従が困った顔で振り返った。


「アイシャ様、申し訳ありません。支度が、まだ整っておりませんで」

「どうかなさったのですか」

「水差しを運ぶ者と、寝具を整える者の手配が、本日はうまく回っておらず。今しばらくお待ちいただけますでしょうか」


 侍従の背中越しに、部屋の中が見えた。シャハリヤール王はすでに寝台の縁に座っていた。視線が、扉の隙間から覗くアイシャに向いた。


「お前」

 中から、シャハリヤールの声がした。


「は、はい」

「いつまでそこにいる。入ってこい」

「で、ですが、お支度が」

「待っているのも面倒だ」


 アイシャは、侍従が動き回る中、おずおずと寝室の中に進んだ。卓のそばまで来て、いつものように一礼した。


「アイシャ=ルーン、参上いたしました」


 シャハリヤールは寝台の縁に座ったまま、軽く手を振った。しばらくの間、沈黙が流れる。


 どうしよう。何か手伝った方がいいのかしら。でも、こちらから王陛下に話しかけるのも不敬だし。黙っているほかないわ。


「お前、経理部の文官といったな」


 突然の問いに、アイシャは戸惑った。


「は、はい」

「どのような仕事をしている」


 仕事? 文官の仕事内容が知りたいのかしら?


「あの、収支の整理や、各部からの報告書の集計、それから、納品記録の照合などを」

「文官としての才覚は、ジャファルからも聞いている」


 え、とアイシャは思った。ジャファル侍従長様が私のことを王陛下にお話しに?


「畏れ多いことです」

「数字の処理が丁寧だと、評判だそうだな」


 アイシャは、頬が熱くなるのを感じた。ただの仕事を、このように言われるのは、思いがけないことだった。


「あ、ありがとうございます」

「で?」

「は?」

「文官の仕事は、面白いか」


 シャハリヤールは寝台に身を横たえる前、椅子の縁に少し身を傾けて、こちらを見ていた。本気で聞いているようだった。アイシャは少し戸惑った後、正直に答えた。


「面白いです」

「何がだ」

「数字は、嘘をつかないので。それに、合わない数字を合わせていく作業は、何といいますか、絡まった糸を解いていくような気持ちよさがあります」


 言ってから、また、しまった、と思った。文官の仕事の話を、王陛下にこんなふうに語るなど、無礼だわ。


 けれど彼は、わずかに眉を上げるだけだった。


「ふん」


 そして、少しだけ口の端を上げた。


「絡まった糸、か」


 シャハリヤールの口調は、どこか面白がっているようだった。アイシャは、緊張しつつも、不思議と話しやすく感じた。


「あの、それから、本を読むのも好きで」


 ぽろりと口から出た言葉に、アイシャは自分でも驚いた。ただの私的な話を、なぜ口にしてしまったのだろう。


 彼は、わずかに目を細めた。


「あの夜、図書館で、お前は本のあらすじを語った。あれは、本を読まぬ者の語り方ではなかった」


 アイシャは、頬がさらに熱くなった。王陛下はあの夜のことを、こんなにはっきりと覚えていらっしゃる。


「お、恐れ入ります」

「で? 好きな本は」


 シャハリヤールの問いは、相変わらずぶっきらぼうだった。けれど今夜は、それが冷たさよりも、むしろ会話の不器用さに聞こえた。


「あの、いろいろな本が好きですけれど」


 アイシャは、少し考えた。


「特に好きなのは、旅の本です。航海記、隊商記、それから、知らない土地の人々の暮らしを描いた本」

「今、読み聞かせている航海記も、好きな本か」

「あ、はい」


 アイシャは思わず、声を弾ませてしまった。


「子供の頃から好きで、母と一緒に何度も読みました。十二の島の話、どの島も少しずつ違っていて、それぞれの章の終わりに必ず何か学びがあるんです。子供の頃は、その学びが分からないことが多くて、母に何度も意味を聞いていました」


 そう話していて、ふと我に返った。王陛下の御前で、こんな子供の頃の話をべらべらと。これじゃ、ただの雑談だわ。アイシャは、口を噤んで、頬を赤らめた。


「あ、あの、申し訳ありません、つい」


 シャハリヤールはじっとアイシャを見ていた。その視線がいつもより少し長かったので、アイシャは戸惑った。


「いや」


 返答は短かった。


「続けろ」

「続けろ、というのは」

「子供の頃の話だ」


 私の子どもの頃の話を、王陛下がご所望なの?

 アイシャの頭の中にはてなが並んだ。王陛下は一体何をお望みなのだろう。


「あの、でも、つまらないお話ですし」

「つまらないかは、私が決める」


 シャハリヤールは寝台に身を横たえた。仰向けではなく、横向きに、いつもより少しだけ枕に深く頭を埋めて。アイシャの方を向いて。


「本の続きは今度で良い。お前の話を聞かせろ」


 アイシャは、一瞬、息を止めた。それから、頷いた。


「は、はい」


 そしてアイシャは、本のあらすじを語る代わりに、子供の頃に母と読んだ本の話を、ぽつぽつと話し始めた。柘榴の木の下で本を読んだ午後のこと。母が時々、声を立てて笑ったこと。母の指がページの縁をなぞる癖のあったこと。アイシャ自身が、五つ目の島の話に出てくる銀色の海に憧れて、雨上がりの水たまりに銀の粉を撒こうとして叱られたこと。


 シャハリヤールは、黙って聞いていた。

 アイシャが水たまりの話をしたとき、ほんのわずかに、口の端を上げた。それは、笑った、と呼べるかどうか分からない、けれど確かに、何かを面白がっている表情だった。そしていつものように、眠りに落ちた。アイシャの話の途中で。


 アイシャは話を止め、しばらく、眠った顔を見つめていた。王陛下は今年二十六歳になるというのに、眠る顔は、あどけない少年のようだった。やがて、額にわずかに汗をかいているのに気づき、自らのハンカチで拭った。


 立ち上がって、寝室を退出するとき、アイシャは振り返った。


 ──おやすみなさい。


 暗い廊下を歩きながら、アイシャは気づいた。


 胸の奥が、温かい。


 今夜は、いつもと違う夜だった。本のあらすじではなく、私の話を聞いてくれた。初めて見る穏やかな表情。いつになく優しいまなざしで、自分を見てくれていた気がした。


 やだ。私、何を考えているの。


 王陛下は、お疲れだから、いつもと違う気晴らしを求めただけ。それ以上の意味はない。そう、それだけのこと。思いあがってはいけないわ。


 そう自分に言い聞かせながら、アイシャは胸の奥の温かさが、少しずつ広がっていくのを止められなかった。



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