第4話 義弟の忠告
最初の夜から、七日が過ぎた。
アイシャの夜は、すっかり王宮のものになっていた。
日が沈む頃に屋敷に戻って、夕食をとり、人知れず王宮へ戻る。侍従府で身を清め、王の寝室へ。卓の本を開き、栞のページから読み始める。三十分ほどでシャハリヤールは眠りに落ち、アイシャは栞を新しい場所に挟んで、本を閉じる。退出の許しは、いつも彼が眠る前に与えられていた。
「読み終わったら、下がっていい」
最初の夜の翌日、寝台に身を横たえながら、彼はそうとだけ告げた。
それがこの七日間、寝室で交わされる言葉のほぼすべてだった。
良かった。今日も、殺されなかった。なんとか生き延びられた。そう思いながら、退出するのがアイシャの日課になった。
それでも油断はできなかった。今夜こそ、何か違うことが起きるのではないか。本を読んでいる最中に剣を抜かれるのではないか。眠ったふりをして、油断したところを処分されるのではないか。毒殺か。絞殺か。それとも、生きたまま海に投げ込まれるか。あらゆる悪い想像が毎夜、頭を巡った。
けれど、そんなことは起きなかった。
彼は本当に、彼女の声で眠るためだけに、彼女を呼んでいるようだった。
毎晩、シャハリヤールは栞の挟まれたページから読むよう命じた。航海記の写本は、十二の島を巡る長い物語だ。アイシャは少しずつ進めた。五つ目の島、六つ目の島、七つ目の島。
彼は黙って聞いていた。
シャハリヤールが眠りに落ちると、寝室の空気が変わる。冷たさが解ける、というのが、アイシャの感じ方だった。眠った顔は、起きているときよりずっと若く見えた。長い金の睫毛、整った輪郭、わずかに開いた唇。
この方は、噂ほど悪いお方ではないのかもしれない。寝顔を見るたびに、そう思うようになっていった。
アイシャは栞を新しいページに挟み、本を卓に置く。手燭を持って立ち上がり、寝室を退出する。廊下を歩きながら、毎晩、彼女は同じことを考えた。
王陛下は、なぜ私を毎晩お召しになるのかしら。本を読んで差し上げるだけなら、なにも私でなくても。夜伽係である必要はないわ。
それに、ジャファル様とかいう侍従長の方も不思議だわ。毎晩、私が退出する頃に、必ずお部屋にいらっしゃるのよね。最初のうちは、私が粗相してないかを確認しにきているのかと思っていたけれど、どうもそうではなさそう。なにせジャファル様ときたら、部屋の外から王陛下の寝顔を嬉しそうにずっと見つめているだけなのだから。
※※※
七日間で、アイシャの居場所だったはずの経理部も、すっかり様子が変わっていた。
最初の数日、同僚たちはアイシャを腫れ物のように扱った。王の夜伽係に指名された女が翌朝経理部に戻ってくるという事態を、誰も処理できなかったのだ。それも、生きて。やがて、机の周りに微妙な距離が生まれ、話しかけられる頻度が露骨に減った。
「あの女、恐王のお気に入りらしい」
「経理部から夜伽係に上り詰めるとは」
「出世のために、ご苦労なことだ」
アイシャの背中越しに、いろいろな声が聞こえた。すべて聞こえていないふりをした。マルジャナだけが、いつものように茶を淹れて、いつものように仕事を割り振った。その態度が、アイシャを救っていた。
それでも、この処遇は堪える。夜伽係なんていうけど、私はただ、王陛下が眠るまで本を読んで差し上げているだけ。でも、閨で起きたことは、他言無用。誰に言うこともできない。どこかでささやきが聞こえるたびに、アイシャの中でもやもやとした気持ちが広がっていった。
「アイシャさん、ちょっといいですか?」
書類の整理をしていたアイシャの背後で、声がした。
振り返ると、ラシードが立っていた。
「少し、ご相談したいことがあるのですが」
ラシードは経理部の同僚だ。もともと王宮計画管理部で働いていたが、つい三か月前の異動でここにきた。出世街道まっしぐらだったはずの部から自ら異動してきたのには、何かわけがあるのではないか、と職場で噂の的だった。もっとも、そのわけはアイシャには分かっていたが。
「分かりました」
アイシャは書類を片付け、ラシードに続いて経理部を出た。ラシードが向かったのは、王宮の北庭の隅、誰も来ないことで知られている枯れた泉の傍だった。
泉まで近づくと、誰もいないことを確認してラシードは声を上げた。
「姉さん、一体どういうことなの? シャハリヤール王陛下の夜伽係だなんて。それも、もう何度も呼ばれてるって」
「ラシード。ここではアイシャと呼んでって言ったじゃない」
「それどころじゃないよ。なんで相談してくれなかったの。姉さんともっと一緒にいたいから経理部に異動してきたのに」
ラシードは、父の後妻が産んだアイシャの義弟だ。ハサーン家の人間であることは、経理部の誰も知らない。文官登録には母方の祖父の家名を使っていた。二人の家族関係は、宮廷の誰一人として知らない秘密だった。
「私のために異動なんてやめてって言ったじゃない。なのに、あなたは全然言うこと聞かないから……」
「異動の件は、僕がしたくてしたんだからいいの。で、どういうこと。詳しく聞かせてくれる?」
ラシードは低い声をわずかに荒らげると、アイシャに一歩近づいた。いつもは穏やかな碧の眼には、怒りが滲んでいる。アイシャは思わず、目を逸らした。
「……あなたを巻き込みたくなかったのに」
「もう巻き込まれてるよ。家族なんだから」
アイシャは状況を手短に伝えた。ラシードは、黙って話を聞いていたが、次第に顔が歪んでいく。アイシャが話し終えた後には、がっくりと頭を下げて落ち込んでいた。
「姉さんって本当に……。どうしてそんな人に目をつけられちゃうかな」
「何よその言い方。悪かったわね、駄目な姉で」
「そういう意味じゃないよ。そうじゃなくて……いや、いいや。その夜伽係って、辞退できないの?」
「無理よ。王陛下直々の御召しだもの」
「王陛下は、冷酷で残虐な人だって噂だろ。今は無事みたいだけど、これから先どうなるか。夜伽係なんて、いつ殺されてもおかしくない」
ラシードの眼は真剣だった。
「ねえ、姉さん」
「なに」
「逃げない?」
え、とアイシャは思った。
「逃げる、って」
「僕と一緒に。王宮から、家から、全部から。今夜のうちにでも」
ラシードの声は、低く、けれど、確信に満ちていた。
「具体的な手筈はあるんだ。北の隊商に紛れ込ませる伝手がある。一週間ほどで、この国を出ることもできる。新しい身分で、別の街で生き直すこともできる」
あまりにすらすらと喋る義弟に、アイシャは驚いた。
「ラシード、あなた。まさか、前から準備していたの?」
「半年前から」
アイシャはまじまじとラシードを見返す。
「半年前」
「姉さんが文官試験を受けるって言い出したときから。いや、もっと前かな。母上が縁談を強く勧め始めた頃から。いつ、姉さんが家から逃げ出さなきゃならなくなるか、分からなかったから」
ラシードの目には、これまで見たことのない種類の熱があった。アイシャは思わず、どぎまぎした。
「ら、ラシード」
「なあに。姉さん」
「私が逃げたら、あなたはどうするの。調べられて、私がハサーン家の人間だとバレたら、あなたも処罰されるかもしれないのよ」
「僕のことは気にしないでいい」
「気にしないわけにはいかないでしょう」
アイシャはとっさにラシードの手を取った。自分のために、この優しい義弟が傷つくのは見たくなかった。ラシードは、わずかに目を伏せると、アイシャの手を強く握り返した。
「それでも構わないよ。姉さんが安全な場所にいることが、僕には大事なんだ」
アイシャは黙って、ラシードの顔を見ていた。そして、静かに首を振った。
「私、逃げないわ」
「姉さん」
「今のところ、私は無事だし。王陛下は──」
そこで言葉に詰まった。王陛下は、そんなに悪い方ではない。そう言いそうになって、止めた。それを口にすることが、なぜか、はばかられた。
「まさか、姉さん。王陛下を慕ってるとでも言うの?」
ラシードの瞳に熱が宿った。乱暴にアイシャの腰を抱えて引き寄せる。
「抱かれて、ほだされでもした? 陛下は、優しかった? どんなふうに姉さんの髪に、身体に、唇に、触れた?」
ラシードの顔が近づいてきて、思わずアイシャはラシードの胸を押し返した。
「ちょっと、何してるの。ふざけるのはやめなさい! 王陛下とはそんな関係じゃないわ!」
アイシャの強い口調に、ラシードは我に返ったように目を瞬かせた。
「どういうこと……?」
「王陛下は、私に指一本触れてはいらっしゃらないわ」
言ってから、恥ずかしくなって顔が赤くなった。それを見て、ラシードがぽかんと口をあけた。
「まさか、そんな」
「本当よ」
「姉さんに指一本触れずに夜を過ごせるなんて、噂通りの女嫌……。いや、それは良かった。本当に良かった。姉さんはまだ誰の者にもなってないんだね。安心したよ、僕」
ラシードはなぜか、目を閉じてうんうんと頷いている。安心してくれて良かった、と思う反面、妙な寒気がしてきた。そんなアイシャをよそに、ラシードは目を輝かせると、彼女の手をとった。
「ただ、これだけは覚えておいて。姉さんが逃げたいって思ったら、いつでも僕を頼ってほしい。姉さんは僕の大事な人だから」
「ありがとう、ラシード。私もあなたが大事よ。大切な家族なんだから」
ラシードはわずかに口元を緩めた。けれどそれは、笑みというには寂しすぎる仕草だった。
「そう言うと思ったよ、姉さんは」
アイシャは、ラシードの表情を少し不思議に思いながら、話を切り上げて経理部へと戻った。
自席に座ると、マルジャナがちらりとこちらを見た。やれやれ、と言う顔だった。
「アイシャちゃん、大変そうね」
マルジャナの言葉の意味を深く考えることもなく、アイシャは曖昧に頷いた。




