第3話 シャハリヤールの夜
シャハリヤールが眠れなくなったのは、もう三年ほど前からだった。
最初は、ただの不調だと思っていた。政務が立て込んで頭が冴え、夜になっても眠気が訪れないだけのことだと。やがて、それが日を追うごとに悪化していった。寝台に横になっても瞼が下りない。下りたとしても、夢の縁に意識が引っかかったまま朝を迎える。御典医が薬を処方しても、効くのは最初の数日だけだった。やがて薬は身体に馴染み、眠りはますます遠ざかった。
理由は、自分でも分からなかった。
即位して間もない頃から、宮廷では多くのことがあった。先王の代から続く権力闘争、北方派と南方派の暗闘、外戚の専横。その渦の中で、シャハリヤールは感情を消す術を身につけた。冷たく、論理的に、政務を裁いた。臣下たちは王を恐れた。それでよかった。恐れが王の盾になった。
恐れられる王を演じることで、シャハリヤールは生き延びてきた。
そして、いつの間にか、眠れなくなった。
何かが原因のはずだった。けれど、それが何なのか、分からなかった。心当たりが多すぎて、特定できないのだった。政敵の影に怯えているのか、自分が裁いた処分の重みに耐えかねているのか、それとも母を失い、父を失い、孤独な王座についた自分自身に、そもそも眠る資格がないと感じているのか。
艶やかだった髪と肌は色褪せ、目の下には深い隈が焼き付いた。健康不安を噂されるのを恐れて、御簾ごしで臣下に接し、姿を現さないようになった。
御典医は、心労が原因でしょうと言った。それは答えではなかった。
ジャファルだけが、シャハリヤールの苦悩を知っていた。
ジャファルは先王の代から仕える古参で、シャハリヤールが少年王であった頃から傍にいた。寡黙で、皮肉屋で、王に対して敬意を持ちつつ必要なときは率直に意見する数少ない人間だった。
そのジャファルが、ある朝、政務の合間に静かに切り出した。
「陛下。今日は顔色がよろしいようで」
「ああ。昨晩、少し眠れた」
「眠れた!? 本当ですか!?」
「嘘をついてどうする。ほんのわずかだが。図書館で」
「図書館で!? 一体何をなされたのですか? 新しい薬を? それとも香を試された? まさか、床や椅子で眠られたとか?」
ジャファルは食い気味に次から次へと質問を投げかけてきた。
こうしてシャハリヤールは、夜の図書館であった顛末を、隅から隅まで話すことになったのだった。
※※※
あの夜。
シャハリヤールは、いつものように眠れない時間をつぶそうと、何気なく王宮図書館へと足を向けた。
書架の前で本を一冊手に取って、ぼんやりとページをめくっていたところに、誰かが現れた。文官の制服を着た女だった。手燭を持ち、帳簿の束を抱え、書架の北端に向かおうとしていた。女はシャハリヤールに気づくと、立ち止まった。逃げる素振りもなく、こう言った。
「……何か、お探しですか」
落ち着いた声だった。
シャハリヤールは虚を突かれた。普通、宮廷の女は王の前で萎縮する。あるいは媚びる。それ以外の振る舞いを、ほとんど見たことがなかった。けれど、目の前の女は、ただ普通に話しかけてきた。仕事の途中で書架の前で立ち尽くしている誰かに対するのと、同じ調子で。
シャハリヤールは、手にしていた本を持ち上げて見せた。実は、内容は何でもよかった。眠れぬ頭を紛らわせるために、書架から引き抜いただけだった。
「これだ」
すると女は、ふと表情を緩めて言った。
「それ、面白いですよね。主人公が七つ目の島から脱出するところなんて、ワクワクしました」
それは無礼に近い振る舞いだった。文官の女が、王族に向かって本の評を口にする。けれど、女の声に媚はなかった。怖れもなかった。ただ、本を語るときの、純粋な熱だけがあった。
シャハリヤールは、椅子を引き寄せて座った。
そして、こう言った。
「で?」
我ながら、ぶっきらぼうな問いだった。この女の声を、もう少し聞いていたい。そんな気持ちだった。
女は戸惑った様子で、けれど、おずおずと語り始めた。最初の島、二つ目の島、三つ目の島──。
シャハリヤールは、ただ黙って聞いていた。
最初は、ただの気晴らしだった。眠れぬ夜の、束の間の慰めだった。けれど、四つ目の島の話に入った頃、気づいた。頭が、静かになっていた。三年間、ずっと頭の中で響き続けていた議論の声が、いつの間にか止んでいた。代わりに、女の声だけが、響いていた。
心地よかった。
そして、眠気が襲ってきた。
実際、シャハリヤールは眠ってしまった。
堅い椅子に座ったまま。
目が覚めたのは、夜明け前だった。
書架の影に、女はいなかった。
代わりに、肩に、見知らぬショールがかかっていた。
そして腕には、女が読んでくれた航海記の写本が抱えられていた。
シャハリヤールは、しばらく動けなかった。三年ぶりに、何時間かだけだが、深く眠った。そして女は、自分を起こさず、ショールを残して去った。
彼は、ショールを掴みながら自分の頬がわずかに緩んでいるのに気づいた。笑っていた。一人で、夜明け前の図書館で。笑うのは、何年ぶりだろうかと思った。
※※※
「陛下」
ジャファルの不安げな声で、シャハリヤールは思考の縁から戻った。
「昨日のお話、早速お調べいたしました。あの夜、図書館にいたのは、経理部の文官でアイシャ=ルーンと申す者です」
シャハリヤールは黙っていた。
「陛下のお側にお呼びする手配を、整えます」
ジャファルの断定的な声に、わずかに眉を寄せた。
「お前、何を勝手に」
「夜伽係としてお呼びすれば、自然な形になります。誰の不審も招きません」
「ジャファル」
「陛下、あれから三年でございます。もう限界です。できることがあれば、すべて試させていただきたいのです」
ジャファルの声は、静かだった。けれど、その静けさの底には、有無を言わせぬ何かがあった。先王の代から仕える侍従長が、王の身体を案じて差し出す進言だった。
シャハリヤールは、息を吐いた。
「……好きにしろ。それにしても、よりによって、あの経理部とはな」
ジャファルは深く頭を下げ、執務室を出ていった。
アイシャ=ルーン。
あの女。
経理部の文官だったのか。
書架の影で本を語った姿は、はっきりと覚えていた。手燭の灯りに照らされた、眼鏡の縁、結いあげた髪、本を抱える指先。飾り気のない姿が、不思議と好ましく思えた。
しかし、──私を恨むだろうな。
シャハリヤールは、机に肘をついて目を閉じた。
※※※
夜になり、女が寝室に通された。
戸が開く前に、シャハリヤールは寝台の縁に背を向けて座った。何となく、振り返るのが躊躇われた。振り返って、女の顔を真っ直ぐ見たら、自分の中の何かを認めてしまう気がした。
戸が開いた。
「アイシャ=ルーン、参上いたしました」
声を聞いた瞬間に、あの女だと分かった。昨夜の図書館で、ぼそぼそと航海記のあらすじを語った女。眠ってしまった自分にショールをかけて去った女。
「入れ」
声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。意識して冷たくしたわけではなかった。むしろ、緊張をごまかすために、いつもの仮面を厚くしただけだった。
衣擦れの音。女が寝室の中に進む。卓のそばで、もう一度一礼する気配。
「面を上げろ」
振り返ると、女は伏せていた顔を上げた。
昨夜の女に、間違いなかった。けれど、記憶の中の女とは違っていた。
女は眼鏡をかけていなかった。それどころか、薄く化粧が施され、ゆるく波打つ黒髪は腰のあたりまで広がっている。豊かな胸を強調するかのような薄い絹の寝間着が、煽情的ですらあった。
まさか、これほど美しい女であったとは。
あの、夜の図書館で出会った姿と、目の前の姿がかみ合わなかった。
しかし──
シャハリヤールは、わずかに眉を寄せた。
「眼鏡は」
女は、戸惑った顔をした。
「眼鏡、ですか」
「昨夜はかけていただろう」
女の頬が、わずかに赤らんだ。
「あ、あの、本日は侍従府の作法に従いまして、その」
面白くない、と思った。今日のこの女の姿を、俺以外に見た者がいるのかと思うと、それがたとえ女の侍従であっても、世話係であっても、なんだか気に食わなかった。たとえて言うならば、自分だけが愛でていた小さな白い花が、誰かの手によって満開にさせられてしまったような、不快感。
苛々としてくる心をおさえて、シャハリヤールは、女をどうするべきかと考えた。彼は元々、女性に興味が無かった。政を行い、国を豊かにすることに必死で、寝所に自ら女を呼んだこともなかった。それどころか、無能な前王の作った後宮を解散させ、そこで働いていたすべての女性を故郷へと帰したぐらいだ。そのぐらい、女性という生き物に興味が無かった。むしろ、嫌っていた。もっとも、それで、出世を狙う一部の貴族や官吏から恨まれることになったわけだが。
ただの文官の女を閨に侍らして喜ぶ趣味など、ない。しかし、今すぐ女を帰らせると、女にも、自分にも、あらぬ噂が広がるであろうことも想像がついた。
仕方ない。今夜だけやりすごそう。彼は、努めて落ち着いた声を出した。
「女」
「は、はい」
「昨夜の続きを」
女は戸惑った。
「続き、ですか」
「四つ目の島から先だ」
シャハリヤールは寝台の傍の卓を指した。卓の上に置かれていた一冊の本。それは、昨夜、書架にもたれかかって眠ってしまったときに腕に抱えていた、あの航海記の写本だった。
あのとき、目覚めてから、この本を寝室まで持ってきていた。後生大事に。なぜそうしたのか、自分でも説明がつかなかった。
「さっさとしろ」
女は、少し顔を上げて、何か言いたげに口を開いた。
「あの、本を読むのですか……?」
シャハリヤールは、思わず口の端を上げた。これまでこんなに素直に、いや、不躾に問いを投げかけた者はいなかった。
「他に何をすると?」
思わず、少し意地悪な口調になった。
女は、頬がさらに赤くなった。
「い、いえ、そんな」
その慌てぶりが、シャハリヤールにはおかしかった。
「座れ」
「読め」
ぶっきらぼうな命令だった。
女は本に手を伸ばした。指先が震えている。けれど、本を開き、栞の挟まっているページを見つけて、深く息を吸った。
栞は、四つ目の島の章の冒頭に挟んでおいた。昨夜、自分が眠ってしまったために聞けなかった、まさにその場面に。朝、目覚めてから、自分で挟んだ。そのことを、シャハリヤールは女に告げる気はなかった。
女が読み始めた。
「四つ目の島は、一面が銀色の海に囲まれていた──」
声を聞いた瞬間、頭の中が静まっていく。
何が起きているのか、自分でも、まったく説明がつかなかった。ただ、女の声は、心地よかった。低く、落ち着いて、けれど、本の中の景色を生き生きと立ち上がらせる声だった。
黄金に輝く島。捕らわれる主人公──。
意識が、ゆっくりと沈んでいった。
不安が、雑念が、まどろみの中に消えていく。
その感覚を、シャハリヤールは久しぶりに味わっていた。
シャハリヤールは、眠りに落ちた。
柔らかな闇に、深く、深く。
三年ぶりに、寝台の上で、深い眠りに。
意識を失う寸前、彼はふと、思った。
捕らわれたのは、女か。
それとも、俺か。




