第2話 一夜の始まり
「経理部文官。アイシャ=ルーン。今宵より夜伽係として王の寝所に侍るように」
王宮からの使者が去った後の沈黙は、息苦しいほど長く続いた。
経理部の誰もが、口を開かない。
アイシャは机の上の書状をただ見つめていた。封蝋に押された紋章。王家の翼を広げた獅子。それが本物であることを、彼女の指先は触れなくても確信していた。
どうして。
やっぱり。
その二つだけが、彼女の頭の中でこだましていた。
「アイシャちゃん」
マルジャナの声が、ようやく沈黙を破った。
「ちょっと、こっちに来て」
椅子を引く音。マルジャナの手がアイシャの肩に触れる。促されるまま立ち上がり、経理部の隅、書架と書架の隙間にある狭い空間に連れて行かれた。普段は古い帳簿を取り出すために使われる場所で、人目を避けるには都合がよかった。
「断れない命令だってことは、分かってるわよね」
マルジャナの声は低かった。声を高く保とうとする普段の意識的な努力が、今は払われていない。
「は、はい」
「侍従府の召喚に応じるのは今夜。昼間のうちに支度をして、日が暮れる前に侍従府に出頭。そこから王宮に上がる流れになるわ」
「先輩、お詳しいんですね」
「ここにいるとね、だいたいの宮廷の流れは耳に入ってくるの」
マルジャナは少しだけ笑った。けれど目は笑っていなかった。
「アイシャちゃん。一つだけ聞いていい?」
「はい」
「シャハリヤール王陛下に呼ばれる心当たりはある? どこかで会ったことがあるの? 顔を合わせたとか、目が合ったとか」
アイシャの喉がきゅっと狭まった。
昨夜の図書館。書架の影に立っていた、褐色の肌に金色の髪の男。あの男を「王族」だと思ったことは確かだ。しかし、まさか王本人だったとは。閨係の指名が来た今、それ以外の解釈はもう成り立たない。
「……昨夜、図書館で」
「図書館で?」
「香料の納品記録を照合していたら、書架の影に……長身の方が」
マルジャナの表情が変わった。
「アイシャちゃん。詳しく話してくれる?」
アイシャは手短に話した。男に話しかけられたこと、本のあらすじを語ったこと、男がそのまま眠ってしまったこと、自分のショールを男の肩にかけて出てきたこと。話しながら、自分の声が震えているのに気づいた。昨夜、図書館を出るときには、これほど大変なことになるとは思っていなかった。ただ、疲れて眠っている人を起こさずに退出した、それだけのつもりだった。
マルジャナはじっと聞いていた。話が終わると、彼女は短く息を吐いた。
「あなた、陛下の話は聞いているわよね?」
「はい。閨に侍った女性は皆、殺されたとか……」
マルジャナはアイシャの言葉を聞くと、大きく眉を歪めた。
「それは、ただの噂よ。陛下はそんなことしない」
「え。でも」
「夜伽係を殺すなんて不経済なこと。あのケチな陛下がそんなことするはずない。そもそも陛下は大の女性嫌いよ」
「じゃあ」
思わず、アイシャの声に元気が出た。
「ただ、陛下の寝所で女性が亡くなられたことがあるのは事実よ」
「やっぱり、ほんとじゃないですか!」
アイシャは思わず大きな声を出した後、がっくりと項垂れた。……しかし、マルジャナ先輩は、なんでこんなにシャハリヤール王陛下のことに詳しいんだろう。もしかしてゴシップ好き? 王宮ファンとか? アイシャは、思わず自分の危機的状況をどこかに置いて、マルジャナの強く紅い瞳を見つめた。
「とにかく。陛下の寝所では何が起きるか分からないってことよ」
アイシャは頷いた。頷きながら、手のひらが冷たく汗ばんでいるのに気づいた。
「先輩」
「なに?」
「もし、わたしが今夜帰ってこなかったら」
「縁起でもないこと言わないの」
「もし、ですよ。経理部の机の引き出しに、香料の照合の途中の書類があります。あれだけは、片付けておいてもらえませんか」
マルジャナは少しの間黙っていた。呆れた、という顔だった。
「分かったわ。任せて」
※※※
侍従府の作法は、思っていた以上に簡素だった。
体を清めるための湯の準備、軽い食事、そして寝室までの道筋の説明。閨係の心得という長々しい説教を覚悟していたが、年配の侍従女官は手短に必要事項だけを伝えた。
「王の御前では、王の言葉を待つこと。問われぬことは語らぬこと。退出の許しなく、寝所を離れぬこと」
それだけだった。
「あの」
アイシャは思い切って尋ねた。
「王陛下はなぜ文官の私をお呼びになったのでしょう」
侍従女官はしばらくアイシャを見ていた。
「王の御心は、誰にも測れません」
「……」
「ただ、一つだけ申し上げます」
侍従女官は声を低めた。
「侍従長が、あなたを名指しでお呼びになりました」
そう言って、彼女はアイシャに退室を促した。
王の寝室へ続く廊下は、ひどく長かった。道々で松明の灯りが揺れていた。歩を進めるにつれて、廊下の装飾が華麗になっていく。歩きながら、アイシャは足元が浮いているような感覚に襲われた。
断頭台に上る時ってこんな感じなのかしら。短い人生だったわね。こんなことならおとなしく継母の言う通りに政略結婚に応じておけばよかった。あ、図書館で借りてた本、二冊。まだ返してなかった。それに──ドゥンヤにお別れも言えなかった。ドゥンヤのニンジンパイ、もう一度だけ食べたかったわ。
あまりの恐怖からか、アイシャの脳内には日常のこまごましたことしか浮かんでこなかった。
やがて寝室の前で、侍従が一礼した。
「お入りください」
戸が静かに開いた。
※※※
寝室は、思ったより広く、思ったより薄暗かった。
天井は高く、四方に垂れ下がる絹の幕が、灯りのわずかな揺れに合わせてゆっくりと動いている。中央に大きな寝台があり、その傍らに小さな卓と椅子が一脚。卓の上には、水差しと、本が一冊。
寝台の縁に、長い金の髪が見えた。背を向けて男が座っている。あれがシャハリヤール王陛下だろう。アイシャの予想に反して、寝衣ではなく、簡素な室内着のままだった。
アイシャは戸口で身を屈め、深く一礼した。
「アイシャ=ルーン、参上いたしました」
男は振り返らなかった。しばらくの沈黙の後、ようやく声が返ってきた。
「入れ」
声は、昨夜と同じ声だった。冷たく、けれど奥に何かを湛えた声。
アイシャは戸を閉めて、寝室の中に進んだ。歩くたびに絹の幕が頬をかすめる。卓のそばまで来て、もう一度一礼した。
「面を上げよ」
男が振り返った。
目が合った瞬間、アイシャは思わず息をのんだ。昨夜の図書館で見た顔だった。間違いなく、あの男だった。けれど今夜は、灯りに照らされた顔がもっとはっきりと見える。整った輪郭、深い金の瞳、そして目の下の濃い影。疲労の痕は、昨夜よりさらに深かった。
シャハリヤールはしばらくアイシャを見ていた。
それから、わずかに眉を寄せた。
「眼鏡は」
え、とアイシャは思った。
「眼鏡、ですか」
「昨夜はかけていただろう」
王陛下は、私が、あの夜の図書館で本のあらすじを語った女だと、はっきり認識している。アイシャの心臓の鼓動が急激に速くなった。
「あ、あの、本日は侍従府の作法に従いまして、その」
そう言うと、シャハリヤールは面白くなさそうな顔をした。
「女」
「は、はい」
「昨夜の続きを」
寝室の中の空気が、わずかに変わった。
アイシャは戸惑った。
「続き、ですか」
「四つ目の島から先だ」
シャハリヤールは寝台の傍の卓を指した。卓の上に置かれていた一冊の本。昨夜、王陛下が図書館で抱えていた航海記の写本だった。
「さっさとしろ」
え、とアイシャは思った。
「あの、本を読むのですか……?」
言ってから、しまった、と思った。聞き返すような無礼を犯してしまった。打ち首か、鞭打ちか。良くて流刑かしら。
けれど王陛下は、わずかに、ほんのわずかに、口の端を上げたように見えた。それは笑みと呼ぶには微かすぎたが、確かにそうだった。
「他に何をすると?」
「い、いえ、そんな」
顔が熱くなるのを感じた。アイシャは一応、貴族令嬢だ。夜伽係が何を意味するかは知っている。具体的に何をどうするのかは、よく知らないが。それなのに、私が求められていたのは、ここで本を読むことだったの?
「座れ」
シャハリヤールが寝台の傍の椅子を示したので、恐る恐る椅子に近づいた。寝台の縁に座る王陛下のすぐそばに腰を下ろすことになる。距離が近すぎる、と思ったが、命令なので従うしかない。
椅子に座ると、卓の上の本が、アイシャの正面に置かれた。シャハリヤールは寝台に身を横たえた。仰向けではなく、横向きに、枕に頭を預けて。アイシャの方を向いて。
「読め」
ぶっきらぼうな命令だった。
アイシャは本に手を伸ばした。指先がまた震えた。けれど本を開き、栞の挟まっているページを見つけて、一度深く息を吸った。
栞は、四つ目の島の章の冒頭に挟まれていた。
昨夜、自分が図書館で語ろうとした、まさにその場面に。
アイシャは、声を整えて、読み始めた。
「四つ目の島は、一面が銀色の海に囲まれていた──」
シャハリヤールは黙って聞いていた。
アイシャはわき目もふらず、読み続けた。物語に集中していると、自分の置かれた状況をいくらか忘れることができた。声が落ち着いてきた。指の震えも止まった。
四つ目の島。黄金でできた花や蝶が咲き乱れる極楽の島。しかし、その島は、人間をおびき寄せ、肥やしにしようとしていた。
アイシャは読み続けた。
主人公が命からがら島を出て、五つ目の島にたどり着こうというとき──、静かな寝息が聞こえた。視線を上げると、王陛下の瞼が、閉じられていた。呼吸が、深く、規則正しい。
眠っている。
昨夜と同じだ。
寝台に横たわって眠る王陛下の姿は、図書館で眠っていた姿よりも、ずっと無防備だった。整った顔の輪郭が、灯りの下で柔らかく浮かんでいる。長い睫毛が頬に影を落とす。冷たい印象は、今は消えていた。
冷酷な王。
閨に侍った女性は、生きて戻れない。
けれど、目の前で眠っているこの人とは、その話は結び付かなかった。
アイシャは本を閉じなかった。栞を、四つ目の島の終わりに丁寧に挟んだ。それから、本を卓の上に置き、息を殺して立ち上がった。
退出の許しは、まだ得ていない。
侍従女官の言葉を思い出した。退出の許しなく、寝所を離れぬこと。けれど、王陛下は眠っている。
アイシャは少し迷ったあと、そっと椅子に座り直した。寝台で眠る王陛下のそばで、夜が明けるまで、ここに座っているしかないようだ。
殺されなかった。良かった。王陛下の気まぐれか。眠気のおかげか。今日一日は、なんとか生き延びることができた。
アイシャは深く息を吐いた。椅子の背にもたれかかると、急に眠気が襲ってきた。




