第1話 地味な文官のはずが、夜伽係に任命されました
アイシャ=ルーンは、王宮に仕える文官である。
経理部の官吏として採用されて半年。
目立たぬように、とはいえ、自分のできる限り全力で職務に取り組み、同僚や上司からの評判も悪くないはずだった。
なのに。
「経理部文官。アイシャ=ルーン。今宵より夜伽係として王の寝所に侍るように」
なぜ。
なぜこんなことに?
封蝋に押された紋章は、まぎれもない王家のものだった。
※※※
話は、この日の朝にさかのぼる。
夜明け前の屋敷は、一部の隙も無く静かだった。
アイシャは寝台から音もなく身を起こし、しばらく闇に目を慣らした。
今日もちゃんと目が覚めた、と彼女は心の中で自分を褒めた。この半年、彼女の朝は、判を押したように毎日正確だった。
床に膝をつき、寝台の下から麻布の包みを取り出す。中には地味な紺の文官服と、革の靴と、円い縁の眼鏡が一つ。それから、手首ほどの太さに束ねた帳簿の控えが数冊。
着替えを手短に終えたアイシャは、鏡を見て満足げに、にこりとした。
よし、今日もばっちり地味ね。
そこに映るのは、社交界で噂の“病弱令嬢”アイシャヌール=ハサーンではない。
黒髪をきっちりと結いあげ、丸眼鏡をかけた、地味で、平凡で、無害な、文官の女だ。
戸の隙間に侍女ドゥンヤが立っていた。
「お嬢様。どうか、ご無事で」
「ドゥンヤってば、毎日そればっかり。大丈夫よ。バレないようにうまくやってるから」
その言葉に、ドゥンヤはわざとらしいため息をついた。
「ハサーン家の令嬢ともあろう者が、身分を隠して王宮で働くなど……」
また長い説教が始まりそうだと思い、アイシャはおざなりに手を振ると慌てて屋敷を出た。外套の襟を立て、徒歩で王宮へ向かう。王宮の通用門に近づくと、門番に文官の証を見せ、軽く会釈をして中に入った。
経理部と書かれた看板のある入り口で、深呼吸を一つ。
戸を開けると、そこはもう彼女の馴染みの世界だった。
※※※
アイシャが席に着くと、隣の机からマルジャナが顔を上げて微笑んだ。
「おはよう。アイシャちゃん、今日も早いわね」
「おはようございます。先輩」
「あらあら、昨日も家にお仕事持ち帰ってたの? だめよ。ちゃんと寝ないと。お肌に響くから」
マルジャナは、入った当初から彼女に何かと気を配ってくれている経理部の先輩だ。丁寧に整えられた化粧とゆるく巻かれた銀の髪。どう見ても美しい女性にしか見えないこの先輩が、実は男の人だと知ったのは、入ってすぐのことだった。だが、お互いに詮索しないタイプなせいか、面と向かってそのことに触れたことは一度もない。その距離感が、アイシャには心地よかった。
午前中は、香料部からの追加報告書の整理に費やされた。アイシャの数字に向かう集中は深く、気がつくと昼の鐘が鳴っている。マルジャナに誘われて中庭の隅で簡素な昼食を取ることにした。
「香料部の報告書、大変そうねぇ」
「ええ。でも、もう少しで終わりますから」
「ほんとに仕事熱心なんだから。アイシャちゃんは、働く女の鏡だわ」
その言葉がアイシャの心の柔らかい部分を少しだけ刺した。ここで働き始めたのは政略結婚を避けたかったからだ。アイシャは公爵令嬢だが、家督を継ぐ義弟がいるので、無理に結婚する必要はない。なのに、継母はアイシャが小さいころから熱心にアイシャに縁談を勧めてきていた。数年前からは、ついに「王族との縁組なら、あなたも文句はないでしょう?」などと言い始めたので、いっそ手に職をつけてしまおうと、徹夜で勉強して文官試験を受け、見事、この職場にもぐりこんだというわけだ。
二重生活を隠すため、令嬢である方のアイシャヌールはずっと寝込んでいる設定にしていたら、いつの間にか“病弱令嬢”という不名誉なあだ名までついてしまったが。
「アイシャちゃん、今夜、図書館に行くつもりなんですって?」
マルジャナが小さく確認する。
「ええ、香料部の支出で少し気になることがあって」
「仕事熱心なのはいいけど、気をつけてね。夜の王宮は、昼とは違うから。こわーいオバケが出るっていうわよ」
マルジャナが、両手を前のほうにだらんと垂らして、面白そうな顔をした。
「まさか、そんな。やめてくださいよ、先輩ったら」
「アイシャちゃんなら、オバケがいても大丈夫かもしれないけど」
アイシャはその言葉の意味を、その時はまだ深く考えなかった。
※※※
確かに夜の図書館は、昼とはまるで違う場所だった。
天井まで届く書架が、影の中で背の高い見知らぬ巨人のように並んでいる。灯りはわずかに、要所要所の燭台と、アイシャ自身が手に下げた手燭だけ。足音が思いがけず大きく響いて、彼女は少し身を縮めた。
香料の納品記録は、図書館の北端の資料庫、古い帳簿の写本が集められている書架の一画にあった。彼女はそこに辿り着くと、目当ての写本を引き出し、近くの卓に広げて作業を始める。手燭の灯りで数字を一つひとつ確認し、自分の帳簿と照合していく。頭の中で計算を続けていた彼女は、ふと何かの違和感を覚えて顔を上げた。
書架の影に、誰かが立っていた。長身で、外套を肩にかけたまま、書架の前で何かの本を手に取っている。手燭の小さな灯りが、その横顔を照らしていた。
褐色の肌に、金色の髪。
アイシャは息を止めた。
間違いない。
王族だ。
でも、なんで夜の図書館に?
この国で、王族は尊敬とともに恐怖の対象だった。今代のシャハリヤール王は、国を豊かにした賢王と呼ばれる一方で、政敵を容赦なく粛清する苛烈さでも知られている。冷酷で人の命をなんとも思わず、閨によばれた女性は生きて寝所を出ることはかなわないと噂されていた。
今すぐ立ち去るべきだと、理性が告げている。けれど、彼女の足は動かなかった。男はこちらに気づいていない様子で、開いた本のページを指でなぞっていた。
目を逸らそうとしたが、アイシャはそのあまりに美しい顔から目を外せなくなってしまった。しかも、よく見ると、手燭の灯りに照らされた肌には、深い疲労が滲んでいた。目の下に影があり、頬が痩せている。
この人、どこか具合が悪いのかしら。
アイシャは小さく咳払いをした。意識して、ではない。ただ、あまりにも長く息を止めていたので、自然にそうなった。
男が、顔を上げた。
目が合った。
王族だけが持つ金の瞳が、こちらをまっすぐに見ている。冷たい眼差しだった。けれど、その奥に、冷たいだけではない、苦悩が見えた気がした。
「……何か、お探しですか」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。逃げるのは、もう遅い。それなら、自然に振る舞うしかない。地味な文官として、名乗らずに済むなら、それで切り抜けられるかもしれない。
男はしばらく彼女を見ていた。それから、手にしていた本を軽く持ち上げて見せた。
「これだ」
それは、古い航海記の写本だった。アイシャが昔、母の書斎で読んだことのある本。海を渡り、十二の島を巡って、珍しい話を持ち帰った商人の手記。子供の頃の彼女は、その本を抱えて中庭で何時間も過ごしたものだ。
懐かしさが、ふと彼女の口を緩めた。
「それ、面白いですよね。主人公が七つ目の島から脱出するところなんて、ワクワクしました」
言ってから、しまった、と思った。文官の女が王族に向かって本の評を口にするなど、無礼が過ぎる。
もしかして、鞭打ち、いや、追放刑に処されちゃったりする……?
背中にじんわりと冷たい汗が浮かぶのが分かった。
けれど男は、怒りはしなかった。すぐそばにあった椅子を引き寄せて深く座った。
「で?」
アイシャは、静かに固まった。 「で?」ってどういう意味なのかしら。「だから、なんだ?」ってこと? それとも、まさか「この話の続きを教えろ」ってこと……?
じっと見ていると、男はわずかに首を傾けた。その仕草で後者だと分かり、おずおずと口を開く。
「……主人公は商人で、若い頃に船に乗って、十二の島を巡るんです。それぞれの島の話が、一つひとつ短い章になっていて。最初の章は、夜だけ姿を現す島の話で。島は人を寄せつけない代わりに、その夜の間だけ望むものが手に入るんです。けれど、夜が明けると島ごと消えてしまう。主人公はそこで、もう会えない愛しい妻の声を聞きます」
話しているうちに、彼女は男のことを忘れかけていた。本の中の景色が、勝手に口から流れ出してくる。子供の頃に生みの母と並んでこの本を読んだ午後の、柘榴の木の下の、温かい陽射しの匂いまでが、声と一緒にこぼれてくる。
男はじっと聞いていた。本を胸に抱えたまま。
「二つ目の島は、永遠に夕暮れの島で。住人は皆、影が長く、声がかすれて。主人公はそこで、自分の影が他人の影と重なる夜を過ごします。その夜、主人公は自分が誰だか分からなくなる。けれど、朝が来て島を出ると、影は元に戻っていて、自分の足元に戻ってくるんです」
アイシャは語りを続けた。三つ目の島は、歌を歌う木の島、大きな六つの羽を持った怪物が現れ、その木に巣を作る。本のあらすじは、彼女の声を借りて図書館の闇に染み出していった。
四つ目の島の話をしようとして、ふと、微かな息の気配を感じた。
男の頭が、わずかに傾いている。灯りを少し近づけて、男の顔を確認する。瞼は閉じられ、呼吸は深く、規則正しい。
眠ってる。
いくら王宮の図書館とはいえ、この人、王族よね。無防備にもほどがある、とは思ったが、この場からさっさと逃げるに越したことは無い。誰かに見咎められもしたら大変なことになってしまう。アイシャは、素早く去ろうとしたが、男に色濃く残る疲労のあとを見て、ほんの少しだけ気の毒になった。そして自分のショールを男の肩にかけてから、足音を殺して出口へと向かった。
この日のことを、後々深く後悔することになるとも知らずに。
ふと頭に浮かんできた物語。
最後までお付き合いいただければ幸いです。




