第10話 シャハリヤールの決断
あの夜のシャハリヤールの記憶は、奇妙に曖昧だった。
あのとき、水差しに手を伸ばした瞬間、彼女の指に触れた。そこから先は、まどろみの中の出来事のようだった。「アイシャ」と名を呼んだことは、覚えていた。「シャハリヤールと呼べ」と命じたことも、覚えていた。そして、唇を重ねたことも。
彼女の頬に指を当てた感触、彼女の唇の温もり――それらは、確かに記憶にあった。けれど、自分が本当にそれをしたという確信は、奇妙に薄かった。眠りの縁で見た夢、と言われれば、そうだったかもしれない、と思うような、そんな曖昧さ。
朝、目覚めて寝台の卓を見たとき、本に栞が挟まれていた。卓に水差しがあった。彼女がいつも通り退室した痕跡だった。それを見て、ようやくシャハリヤールは確信した。夢ではなかった、と。昨夜、自分は確かに、彼女の唇を奪った。
──何をしたのだ、私は。
寝台の上で、シャハリヤールは深く息を吐いた。
夜伽係の女は、本来、王の意のままに扱われるためにそこにいる。王が彼女に何をしようと、咎める者はいない。だが、シャハリヤールにとっては違った。彼女に手を出すつもりは、最初から、なかった。
シャハリヤールは即位してから、一度も自ら寝所に女を呼ばなかった。夜伽係も置いていなかった。あの《《忌々しい事件》》以来、女を毛嫌いしていたからだ。父王が築いた後宮を解散させたのも、同じ理由だった。
彼女を呼ぶのは、声を聞けば眠れるからだ。
穏やかな眠りのために存在する女。
それだけだったはずだ。
なのに。あの女といると穏やかな気分になる自分に気づいた。もっと彼女のことを知りたい、話を聞きたい。そして、その滑らかな肌に、艶やかな髪に、淡く濡れた唇に、触れたいと思うようになってしまった。
シャハリヤールは、寝台の縁に座ったまま、自分の手のひらを見た。彼女の頬に触れた指。その指は、いつもよりわずかに震えていた。
──私は、あの女に、惹かれているとでもいうのか。
認めるしかなかった。ばかげていると思った。思いながらも、口の端が緩むのを止められなかった。
※※※
ジャファルが、執務室に静かに入ってきた。
「陛下、本日の侍従府からの連絡でございます」
「なんだ」
「アイシャ=ルーンが、本日体調不良につき、欠席との届け出にございます」
シャハリヤールは、書類から顔を上げた。
「体調不良?」
「はい」
「病気か」
「いえ、本日のみの欠席という届け出でございます。明日からは、いつも通り上がる予定とのこと」
「そうか」
シャハリヤールは、書類に目を戻した。顔には、何の感情も出さなかった。ジャファルは深く一礼して、執務室を出ていった。シャハリヤールは、しかし、書類を一行も読み進められなかった。
体調不良。もしかして、あの口づけが彼女に負担をかけたのではないか。そう考えた瞬間、シャハリヤールは書類を脇に置いた。そして、机に肘をついて、目を閉じた。
あの口づけを、彼女はどう受け止めただろう。喜んでいたか、戸惑っていたか、嫌悪したか。あの場で逃げなかったのだから、嫌ではなかったのだろう。そう考えて、シャハリヤールは短く笑った。嫌でも、嫌いでも、文官が王に逆らえるはずがない。何を自分の都合の良いように解釈しているのだ。おまえは。
※※※
その夜、シャハリヤールは寝台に入った。
彼女のいない夜はあまりに静かで冷たく、長かった。
卓の上には、彼女がいつも開いていた航海記が、栞を挟んだまま置かれていた。シャハリヤールは、本を開いた。彼女がいつも読み始めていた、八つ目の島の章。自分で文字を辿ろうとしてみた。読めるはずだった。けれど、文字が、頭に入ってこなかった。
ページの上に、彼女の声が、重なってこなかった。ただの文字の羅列だった。彼女の声がない、というのは、こういうことか、とシャハリヤールは思った。
本を閉じ、寝台に身を倒した。
目を閉じる。
眠ろうと、努めた。
しかし。
やはり、というべきか。眠れなかった。
頭の中で、声が、議論がとめどなく溢れてきた。
彼女がいた間は、静まっていた声だ。
その声が、今夜、また、頭の中を満たしていた。
シャハリヤールは、寝返りを打った。
何度も。何度も。
夜は、長かった。
夜明け前まで、ほとんど眠れなかった。
※※※
翌朝、シャハリヤールは執務室で、ジャファルに尋ねた。
「アイシャ=ルーンの体調は」
それは、ごく普通の問いの体だった。警戒のための問い、というふうに装った。ジャファルは、わずかに目を上げた。
「本日も欠席のようです」
「今日も、だと?」
シャハリヤールは、わずかに眉を寄せた。
「親戚の者から、しばらく休むと届け出がありました」
体調不良であれば、本人でなく親戚から届け出が来るのはおかしくはない。だが、何か、ある気がした。シャハリヤールは、書類を脇に置いた。
「調べさせよ。あの女の現状を」
「承知いたしました」
ジャファルは深く一礼して、執務室を出ていった。
シャハリヤールは、机の縁を指で叩いた。
無意識の所作だった。気づいて、止めた。
※※※
アイシャが寝所に現れなくなって三日目の朝、シャハリヤールは執務室で書類を見ていた。
頭がぐらりとして、目の前の文字が霞んだ。身体が、重い。
睡眠不足による体調不良だった。
「陛下」
ジャファルが入ってきた。
「お顔の色が」
「心配ない」
ジャファルが御典医を呼ぼうとするのを、シャハリヤールは手で制した。
「ですが」
「アイシャ=ルーンの調査は、進んだか」
ジャファルは、わずかに口ごもった。
「申し上げます。アイシャ=ルーンは、文官の任を辞しました」
シャハリヤールは、顔を上げた。
「辞した?」
「経理部に正式な辞職届が受理されたとのことでございます」
「いつのことだ」
「本日、提出されたばかりでございます。文官を辞して郷へ下がるとのことで」
「なんだと」
シャハリヤールは、立ち上がった。椅子が、後ろに倒れた。ジャファルは目を伏せた。
「それでは、ここへはもう現れないということか」
「職を辞した者は、ただの平民でございますれば……さようです」
シャハリヤールは、椅子を起こした。そして、机の上に両手をついた。怒りと不安とが、胸の奥で渦巻いていた。
そんなに私が嫌だったのか。
文官の職を辞するほどに。
従順そうな、純真そうな顔をして、
平気でこんな仕打ちをする女だったとは。
シャハリヤールの拳は震え、眉は苦痛に歪んでいた。しかしわずかに俯き、しばらくして顔を上げたときにはもう、施政者の、王の顔へと戻っていた。
「アイシャ=ルーンの調査はもう良い。捨て置け」
「しかし、陛下……」
「自ら逃げようとする者を追うほど、暇ではない」
ジャファルの瞳は、何かを言いたげだった。しかし、シャハリヤールの強い口調に、口は閉ざされたままだった。




