第11話 舞踏会の夜
文官の任を解かれ、半年が過ぎた。
その間に、アイシャの日々は、何の刺激もない、穏やかなものへと完全に変わっていた。
日中は書物を読み、刺繍の真似ごとに手を出してみては、すぐに飽きる。窓辺に座って、母の植えた柘榴の木をぼんやりと眺める。そんな日が、毎日続いた。
外側だけ見れば、半年前に戻ったように見える。
けれど、内側は、別人になっていた。
眠れぬ夜が、毎晩アイシャを苛んだ。発熱が完全に引いた頃から、夜になると目が冴え、瞼の裏にシャハリヤールの寝顔が浮かんだ。あの口づけの感触は、半年経っても、唇に残っていた。指でなぞると、薄れるどころか、鮮やかに戻ってきた。
そして、枕の下の紙片。香料の証拠は、何度か場所を変えて、今は寝台の下の床板の隙間に隠してあった。誰の目にも触れない、誰にも届けない、ただの紙。王陛下を救う手段になるはずのそれは、誰に渡すこともできず今も自分の手元にあった。
経理部からは、何の連絡もなかった。当然のことだった。退職した文官に、上司や同僚が連絡する義理はない。マルジャナとも、半年顔を合わせていない。
ラシードは見舞いに何度か来てくれた。けれど、熱が下がってからは、部屋を訪れていない。継母から何か言われたのかもしれなかった。あるいは、ラシード自身が、距離を置こうと決めたのか。
縁談は、三度、進められ、三度、破談になっていた。
最初のガリーブ家は、先方からの断りだった。理由は明かされなかったが、噂では、アイシャの療養期間の長さを「健康に問題があるのでは」と先方が懸念したらしい。継母は青筋を立てて怒ったが、こればかりは取り戻せなかった。
二人目、三人目の縁談相手は、アイシャ自身が破談に持ち込んだ。
継母の前では、おとなしく令嬢として振る舞うふりをした。けれど縁談相手と顔を合わせる場では、わざと相手の教養を確かめるような言葉を吐いた。相手の貴族令息たちは、次々に縁談の話を引っ込めた。
継母は、三度目の破談の後、ついに激昂した。
「アイシャ。あなた、わざとね」
ある夜、寝室に乗り込んできた継母は、低い声でそう言った。
「お母様、何をおっしゃっているのか」
「わざとよ。わざと、嫁げぬような振る舞いをしているでしょう」
継母の瞳には、これまで見たことのない冷たい光があった。
「アイシャ。これが最後の機会よ」
継母は、卓に一通の招待状を置いた。
「来月、王宮で大舞踏会が催されます。半年ぶりに、シャハリヤール王陛下が公の場に姿をお見せになるそうよ。王妃候補を選ぶためでしょう」
シャハリヤール王陛下が、王妃を。
その言葉に、アイシャの胸は痛んだ。
「あなたを、ハサーン家の令嬢として、舞踏会に出させます。社交界に正式に復帰なさい。そこで嫁ぎ先を見つけてきなさい」
「お母様、そんな」
「もし、これも蹴ろうとなさるなら、わたくしはドゥンヤを家から追い出します。本気よ、アイシャ」
継母は、それだけ言って、寝室を出ていった。
アイシャは、招待状を握りしめた。
王宮、舞踏会。
シャハリヤール王陛下が、いらっしゃる。
会ってはいけない、と理性が告げた。会えば、文官アイシャ・ルーンが私であることが、露見する。町人を装って文官として働き、王陛下の閨に侍っていた女。ただの不敬では済まない。身分詐称の罪に問われ、家ごと処分されるだろう。
でも。もしかしたら、この舞踏会が、香料部の証拠を渡せる最後の機会かもしれない。陛下に会わずに、陛下に証拠を届けるには、どうすれば……。アイシャは、ぐるぐると頭を巡らせた。
そうだわ。
王陛下の側近のジャファル様。私のような者にも親切で、信用が置ける方だった。せめて、あの方に紙を渡せないだろうか。そうすれば、王陛下のお命を救うことができる。
※※※
舞踏会の夜。
ドゥンヤは、アイシャの装いを、半日かけて整えた。
深い紫紺の絹に、銀糸で刺繍の入った夜会服。襟元と袖口には、母から受け継いだ真珠の連が縫い付けられている。髪は、結いあげて、銀の髪飾りで留めた。耳には、母の遺品の小ぶりな耳飾り。
化粧は、丁寧に。けれど、過度ではなく。瞼にわずかな影、頬にほのかな色、唇に控えめな紅。鏡の中のアイシャは、文官アイシャ=ルーンとは、別人だった。
「お嬢様」
ドゥンヤが、震える声で言った。
「本当に、お美しゅうございます」
アイシャは、鏡の中の自分に、微笑みかけた。
微笑みかけたつもりが、頬が引きつった。
馬車に乗り込み、王宮へ向かう。夜の街道を進みながら、アイシャは何度も自分に言い聞かせた。王陛下に近づいてはいけない。視界に入ってはいけない。万が一、顔を合わせる事態になっても、素知らぬ顔で、令嬢として振る舞うのよ。
王宮の正面玄関は、夜会の招待客で溢れていた。半年ぶりに公の場に姿を見せる王を一目見ようと、貴族の家々が競って出席している様子だった。
「ハサーン家、アイシャヌール=ハサーン」
侍従から名乗りが上がったその瞬間、近くにいた数人の貴族令息が、一斉にアイシャの方を見た。
ハサーン家の令嬢。
半年以上、社交界に姿を見せなかった、療養中の令嬢。
その娘が、今夜、姿を現した。
それも、誰もが目を留める美しさで。
アイシャは、視線を集めることに、戸惑った。かつて社交界に出ていた頃の記憶が、断片的に蘇った。けれどその頃は、彼女は十六、七歳の若い令嬢として、まだ深く注目を集めるほどではなかった。けれど、今夜は、違った。
「アイシャ嬢」
最初に近づいてきたのは、隣接する領地のイーダ公爵夫人だった。
「お久しぶりですわ。療養が、ようやく終わられたのですね」
「ええ。もうすっかり元気になりました。ご心配おかけいたしましたわ」
アイシャは丁寧に頭を下げた。
半年ぶりの社交界の挨拶。けれど、文官として身を低くしてきた半年が、彼女の所作に予想外の優雅さを加えていた。動作の一つ一つに、わざとらしさのない、自然な品格があった。挨拶が一段落した頃には、アイシャの周りに、数人の貴族令息が集まっていた。
「ハサーン家のアイシャヌール嬢、お初にお目にかかります」
「カンディ家の三男にございます」
「ナージーブ家の長男です」
「一曲、お相手願えますでしょうか」
次々に申し込まれるダンス。アイシャは、丁寧に断ったり、形だけ受けたりした。半年ぶりのダンスは、足が自然に動かなかったが、相手も気を遣ってくれた。
ダンスを踊りながら、アイシャの視線は、何度も会場の入り口を捉えた。
王陛下はまだいらっしゃっていないようだわ。ジャファル様は、どこかしら。王陛下と一緒に来るのかしら。
そのとき、会場の楽団が一瞬、音を切った。
広間の入り口で、侍従の声が高らかに響いた。
「シャハリヤール王陛下、ご入来」
会場の全員が、深く頭を下げた。アイシャも、慌てて頭を下げた。頭を下げた姿勢のまま、視線だけ、わずかに上げた。
半年ぶりに目にする、シャハリヤール王陛下。褐色の肌に金色の髪。長身で、深い紫紺の正装。胸には王家の徽章。その姿は、半年前と変わらないように見えた。
けれど、頬は、痩せていた。目の下には、深い影があった。
──眠れてらっしゃらないのだわ。
その思いが、アイシャの胸を、鋭く刺した。半年前、私の声で眠っていた頃の王陛下は安らかな顔をなさっていた。今夜のお顔は、その時よりもずっと、疲れている。
そして、アイシャの願いに反して、ジャファルの姿はその隣にはなかった。
※※※
ダンスを何度か踊ったあと、若い貴族令息が、アイシャに声をかけた。
「ハサーン家のお嬢様」
「はい」
「ジャーミー家の長男のジェイドにございます。お見知りおきください」
ジャーミー家。アイシャは記憶を辿った。中堅の貴族家で、王家とのつながりはそれほど深くないが、商売で財を成している家、と聞いたことがあった。
その長男は、二十代半ばの整った顔立ちの男で、アイシャを見つめる目に、強い熱があった。
「一曲、お相手願えませんでしょうか」
「お申し出は嬉しゅうございますが、少し、足が痛みまして」
「では、お話だけでも」
──強引な人だわ。
アイシャは、内心で身構えた。
広間の隅、継母がこちらをちらりと見て、満足げに微笑むのが見えた。継母は、ジャーミー家の長男を、新しい縁談相手として目論んでいるのかもしれない。
「申し訳ございません、少し、頭が痛みまして」
アイシャは、咄嗟に言った。そして、継母の視界から離れる方向へ歩き出した。背中に、ジャーミー家の長男の視線が刺さるのを感じたが、振り返らずに、庭園へと向かった。
※※※
庭園は、月明かりだけが頼りの暗がりだった。
舞踏会の喧噪が、硝子戸の向こうにくぐもって聞こえる。アイシャは、深く息を吐いた。冷たい夜気が、肺を満たした。
ようやく、人の視線から逃れられた。ほっとして、思わず噴水の石垣に座り込む。噴水の水面に映った自分の影はあまりに小さく、頼りなかった。
ジャファル様は、今日はもう現れないのかもしれない。自分の目論見は完全に外れてしまった。もういっそ、継母のいうように、誰か適当な相手を見つけて、嫁ぐほかないのかもしれない。今の自分はそれほど無力だ。そう考えて、思わず涙が出た。
そのとき、ふと、視界の隅に、見覚えのある形が映った。小道の先に、小さな柘榴の木が立っていた。枝には、まだ青い実が、いくつか付いていた。
お母様の柘榴の木と、似ている。懐かしさが、胸を満たした。品種は違うようだったが、葉の形と枝の伸び方が、屋敷の柘榴によく似ていた。アイシャは、そっと、枝の一本に手を触れた。夜の冷たい木の感触が、指先に伝わった。
頬の涙が、もう一筋、こぼれた。慌てて、ハンカチで拭った。化粧が崩れる、と気にしながら、それでも涙は止まらなかった。
そのとき、背後で、小さな足音が聞こえた。
「何をしている」
低い。聞き覚えのある声だった。アイシャは、予感めいたものを感じながら、ゆっくりと振り返った。
月明かりの中、長身の男が、こちらに歩み寄っていた。
深い紫紺の正装。
褐色の肌に、月光に銀色に輝く金髪。
それは、アイシャが最も会いたくないと思っていた
シャハリヤール王陛下だった。




