表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/20

第12話 「アイシャ=ルーンだな」

 まさか。

 シャハリヤール王陛下が、なぜここに。

 アイシャは、咄嗟に顔を伏せた。


 距離は、まだ十歩ほど。月明かりだけの暗がりで、王陛下の表情は、はっきりとは見えない。アイシャ自身の顔も、あちらから見えていないはずだった。


 ──まだ、気づかれていない。大丈夫。


 アイシャは、必死で平静を装った。そのまま深く頭を下げたまま口を開いた。


「シャハリヤール王陛下。お邪魔してしまい、申し訳ございません」


 声を、ハサーン家の令嬢として整えた。文官アイシャ=ルーンの声と、異なる響きになるように。


「面を上げよ」


 低く、けれど、どこか戸惑いを含んだ響きだった。


 アイシャは、ゆっくりと顔を上げた。顔は、直視しなかった。視線を、彼の胸の徽章のあたりに定めた。


「どこの令嬢か知らないが、このようなところに一人でいるのは感心しない」


 シャハリヤールが、静かに言った。


「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。ハサーン家が娘、アイシャヌールと申します。暑さで、少し気分が悪かったものですから」

「なるほど。私が、ここにいることを知っていたわけではない、と?」


 どこか、値踏みするような響きだった。もしかして、王妃の座を狙って忍びに来た令嬢、とでも思われているのかしら。とんでもない。こちらはむしろ、一生懸命あなたを避けようとしているというのに。


「お目汚しを失礼いたしました。私はこれで失礼いたします」


 アイシャはその場を去ろうとした。取り繕う余地は、もう、なかった。しかし、咄嗟のところで、手をとられてしまった。


「ハサーン家のアイシャヌール、と言ったな」

「はい」

「お前は……」


 シャハリヤールが、口を開きかけた。その瞬間、視線が、アイシャの背後に流れた。柘榴の木に止まり、それから、アイシャの顔に戻った。

 シャハリヤールの顔が、歪んだ。それは、苦痛とも、驚きとも、怒りとも、判別がつかない、何かが折れる音のような顔だった。


「アイシャ」


 声は、わずかに震えていた。


 アイシャは、息を止めた。


 気づかれた。

 今ので、気づいてしまわれたんだわ。

 柘榴の木の前で、月明かりに照らされた女の顔が、誰なのかを。

 

「アイシャ=ルーンだな」


 アイシャは、答えられなかった。ただ、首を、ゆっくりと、横に振ろうとした。けれど、振りきれなかった。途中で、震えが止まった。何の答えにもならない、中途半端な仕草だった。


 王の目に、光が宿った。怒りでも、悲しみでもなかった。それは、より深い、何かの目だった。


 その瞬間、アイシャの中で、すべてが崩れた。


 ──逃げなければ。


 その直感が、彼女を支配した。ここで捕まれば、すべてを語らねばならない。けれど、語れる準備が、彼女にはなかった。香料の証拠、家の陰謀、口づけの記憶、半年の絶望。すべてが、一度に整理できる頭の状態ではなかった。


「王陛下。どうか、お許しください」


 アイシャは、深く頭を下げた。そして、踵を返した。


「アイシャ!」


 シャハリヤールの声が、背中に響いた。追ってくる気配があった。けれど、追ってはこなかった。舞踏会の場で、王が一人の女を追って走るわけにいかない。それは、王の威厳に直結する事柄だった。


 アイシャは、夜会服の裾を持ち上げ、庭園を駆けた。踏み石の道を抜け、低木の影を抜け、回廊の硝子戸へ。広間に戻ると、客人の波の中に、必死で身を紛れさせた。


「お嬢様」


 侍従の声を背に、アイシャは王宮の正面玄関を出た。継母の馬車には乗らない。家の使用人が、別の場所に控えているはずだった。


 夜の冷たい空気が、頬を打った。

 止まることなく、馬車置き場へ走った。


 頭の中は、真っ白だった。


 ただ、シャハリヤールの傷ついたような顔だけが、繰り返し浮かんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ