第12話 「アイシャ=ルーンだな」
まさか。
シャハリヤール王陛下が、なぜここに。
アイシャは、咄嗟に顔を伏せた。
距離は、まだ十歩ほど。月明かりだけの暗がりで、王陛下の表情は、はっきりとは見えない。アイシャ自身の顔も、あちらから見えていないはずだった。
──まだ、気づかれていない。大丈夫。
アイシャは、必死で平静を装った。そのまま深く頭を下げたまま口を開いた。
「シャハリヤール王陛下。お邪魔してしまい、申し訳ございません」
声を、ハサーン家の令嬢として整えた。文官アイシャ=ルーンの声と、異なる響きになるように。
「面を上げよ」
低く、けれど、どこか戸惑いを含んだ響きだった。
アイシャは、ゆっくりと顔を上げた。顔は、直視しなかった。視線を、彼の胸の徽章のあたりに定めた。
「どこの令嬢か知らないが、このようなところに一人でいるのは感心しない」
シャハリヤールが、静かに言った。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。ハサーン家が娘、アイシャヌールと申します。暑さで、少し気分が悪かったものですから」
「なるほど。私が、ここにいることを知っていたわけではない、と?」
どこか、値踏みするような響きだった。もしかして、王妃の座を狙って忍びに来た令嬢、とでも思われているのかしら。とんでもない。こちらはむしろ、一生懸命あなたを避けようとしているというのに。
「お目汚しを失礼いたしました。私はこれで失礼いたします」
アイシャはその場を去ろうとした。取り繕う余地は、もう、なかった。しかし、咄嗟のところで、手をとられてしまった。
「ハサーン家のアイシャヌール、と言ったな」
「はい」
「お前は……」
シャハリヤールが、口を開きかけた。その瞬間、視線が、アイシャの背後に流れた。柘榴の木に止まり、それから、アイシャの顔に戻った。
シャハリヤールの顔が、歪んだ。それは、苦痛とも、驚きとも、怒りとも、判別がつかない、何かが折れる音のような顔だった。
「アイシャ」
声は、わずかに震えていた。
アイシャは、息を止めた。
気づかれた。
今ので、気づいてしまわれたんだわ。
柘榴の木の前で、月明かりに照らされた女の顔が、誰なのかを。
「アイシャ=ルーンだな」
アイシャは、答えられなかった。ただ、首を、ゆっくりと、横に振ろうとした。けれど、振りきれなかった。途中で、震えが止まった。何の答えにもならない、中途半端な仕草だった。
王の目に、光が宿った。怒りでも、悲しみでもなかった。それは、より深い、何かの目だった。
その瞬間、アイシャの中で、すべてが崩れた。
──逃げなければ。
その直感が、彼女を支配した。ここで捕まれば、すべてを語らねばならない。けれど、語れる準備が、彼女にはなかった。香料の証拠、家の陰謀、口づけの記憶、半年の絶望。すべてが、一度に整理できる頭の状態ではなかった。
「王陛下。どうか、お許しください」
アイシャは、深く頭を下げた。そして、踵を返した。
「アイシャ!」
シャハリヤールの声が、背中に響いた。追ってくる気配があった。けれど、追ってはこなかった。舞踏会の場で、王が一人の女を追って走るわけにいかない。それは、王の威厳に直結する事柄だった。
アイシャは、夜会服の裾を持ち上げ、庭園を駆けた。踏み石の道を抜け、低木の影を抜け、回廊の硝子戸へ。広間に戻ると、客人の波の中に、必死で身を紛れさせた。
「お嬢様」
侍従の声を背に、アイシャは王宮の正面玄関を出た。継母の馬車には乗らない。家の使用人が、別の場所に控えているはずだった。
夜の冷たい空気が、頬を打った。
止まることなく、馬車置き場へ走った。
頭の中は、真っ白だった。
ただ、シャハリヤールの傷ついたような顔だけが、繰り返し浮かんでいた。




