第13話 ハサーン家の真実
翌朝、アイシャは寝台で目を覚ました。
昨夜の出来事が、まだ夢の続きのように頭の中をぐるぐる回っていた。月明かりの庭園、柘榴の木、シャハリヤールの傷ついた瞳。「アイシャ=ルーンだな」と問われた声。何度自問しても、答えは同じだった。現実だった。王陛下に正体を知られてしまった。私が、嘘つきだと知られてしまった。
寝台の中で、しばらく動けなかった。
怖い。
心の底からそう思った。
けれど、不思議と、半年前のあの絶望ほど深くはなかった。
半年前、文官の任を解かれた朝、アイシャは己の無力をいやというほど知らされた。陛下を救う糸口を持っていながら、それを届ける道を奪われていた。
今朝は違った。
何もかもが終わった、という感覚はあった。けれど、その奥に、別の感覚があった。
──もう、隠れる必要はない。
その思いが、ふっと胸の奥に浮かんだ。
昨夜、王陛下は私の正体に気づかれた。もちろん、罪は罪だ。身分を偽って王の閨に侍った女として、近いうちに私は処断されるかもしれない。でも。それまでに、やれることがあるはずだ。
アイシャは、寝台の下に手を伸ばした。床板の隙間に隠してあった紙片を取り出す。指の力で、少し皺がついた紙。半年前に書き写した、ハサーン家とラスターラの記録。
これを、何としても、王陛下に届ける。
昨夜、王陛下のお顔を見て、痩せた頬と深い隈を確かめて、改めて確信した。陛下は、今もずっと、蝕まれている。眠れずに苦しんでいらっしゃる。どうして、この半年、何もせずにいたのだろう。あんなに苦しんでいらっしゃったのに。王陛下は私がお助けしなくてはいけない。いえ、お助けしたい。それを止められるのは、私の持つこの紙片しかない。
頭の中は、まだ昨夜の混乱を引きずっていた。けれど、半年ぶりに、自分が何かを「決めた」感覚があった。
侍女のドゥンヤが部屋に入ってきた。
「お嬢様、お目覚めですか」
「ええ。ドゥンヤ、おはよう」
「昨夜は、お早いお戻りで」
ドゥンヤの声には、心配の色が滲んでいた。
「ドゥンヤ、お母様は、もうお出かけ?」
「はい。継母様は、午前中、馬車で外出なさいました。市場へ買い物、と」
「そう。ドゥンヤ、わたくし、出かけるわ」
「どちらへ」
「王宮よ」
ドゥンヤの目が、見開かれた。
「お嬢様、それは──」
「行かなくちゃいけないの」
アイシャは、寝台から起き上がった。
「文官の身なりはもうできない。けれど、令嬢としても、すぐに王宮の内部までは入れない。ハサーン家の名で、お訪ね申し上げて、ジャファル様への面会を願い出る」
「お嬢様、ご事情を、お話しいただけませんか」
「後で話すわ。ドゥンヤ。今は、何も聞かず行かせてほしいの」
ドゥンヤは、しばらくアイシャを見つめていた。それから、深く頷いた。
「承知いたしました。お支度を整えます」
※※※
ハサーン家の馬車で王宮へ向かう途中、アイシャは何度も懐の紙片を確かめた。ドレスを着た背中には、べったりと冷たい汗が浮かんでいた。
ジャファル様にお会いできるかどうかすら、分からない。王宮の侍従長が、突然訪ねてきた令嬢に会ってくれる保証はどこにもない。けれど、行かなければならなかった。
アイシャは、ハサーン家の令嬢として、半年ぶりに王宮の正面玄関を抜けた。
昨夜の舞踏会で出入りした玄関。今朝は、まったく違う緊張で、その敷居をまたいだ。
受付の侍従に、自分の身分を告げる。
「ハサーン家が娘、アイシャヌール=ハサーンと申します。侍従長ジャファル様に、火急のお目通りを願いたく、参上いたしました」
侍従は怪訝な顔をした。当然だった。令嬢が一人で、しかも前触れもなく、侍従長に面会を願う。普通ではあり得ないことだった。
「お約束のお時間でしょうか」
「いいえ。けれど、王陛下のご身辺に関わる、極めて重要な件にございます。ジャファル様にしか、お伝えできないことを、お持ちいたしました。アイシャが来た、と言えばお分かりになられるはず」
侍従は、少しの間、躊躇していた。
けれど、アイシャの真剣な目を見て、最終的に頷いた。
「少々お待ちください」
しばらくして、別の侍従に案内されて、アイシャは王宮の奥の小さな応接室に通された。窓のない、密談のための部屋。
アイシャはそこで、半時ほど待った。その間、ずっと冷汗が止まなかった。気を抜くと、ふらりと倒れてしまいそうなほどだった。
扉が開いた。
入ってきたのは、見覚えのある中年の侍従長だった。
「ハサーン家のアイシャヌール嬢、ですね」
ジャファルの声は、いつもの低く落ち着いたものだった。けれど、アイシャを見た瞬間に、目に鈍い光が灯った。それは、ほんのわずかな反応だった。けれどアイシャは、その瞬間にジャファルがすべてに気づいたのが分かった。
「ジャファル様」
アイシャは、覚悟を決めた。
「アイシャヌール嬢、面を上げてください。それで、王陛下の御身辺に関わるお話、というのは」
「ジャファル様、わたくしは──」
言いかけて、声が詰まった。ジャファルは何も言わずに、静かにアイシャを見ていた。その視線が、アイシャの背中を押した。
「わたくしは、半年前まで、文官アイシャ=ルーンとして、経理部に勤めておりました」
ジャファルは、わずかに頷いた。それは、知っている、という頷きだった。
「身分を偽り、王陛下の閨に侍りました。それは、不敬の極みでございます。どのようなお咎めでも、お受けする覚悟でございます」
声が震えた。けれど、続けた。
「今朝、こちらに参りましたのは、王陛下に、お伝えしなければならぬことがあるからでございます」
「と、申しますと?」
アイシャは、懐から紙片を取り出した。半年間、寝台の下に隠してきた紙。それを、ジャファルの前の卓に、震える手で置いた。
「半年前、わたくしは経理部の仕事の中で、香料部の納品記録に異常を見つけました。ラスターラ、という鎮静の薬草が、複数の名目に分散して、王陛下の寝具用の薫香として、長期にわたり納品されておりました。微量を長期間使えば、不眠を悪化させる作用がある薬草でございます」
ジャファルは、紙片に手を伸ばし、ゆっくりと開いた。文字を辿る目が、わずかに鋭くなった。
「その発注者は、ハサーン家の者でした」
ジャファルの目が、わずかに鋭くなった。
「それをなぜ、今」
「気づいたときには、文官の任を解かれておりまして。王陛下にお届けする手段がございませんでした。けれど、このまま黙っていることもできず。無礼を承知でまかり越しました」
ジャファルは、深く頭を下げるとアイシャを見た。
「アイシャ嬢」
「はい」
「よく来てくれました」
「いえ、私は……、私のせいで……」
ジャファルは、紙片を懐に収めた。
それから、深く息を吐いた。
「アイシャ嬢。あなたが去ってから、陛下は、寝台でお眠りになられることがほとんどございません。お顔の色は日に日に悪くなり、お痩せになり、政務にもお差し支えが出ております」
ジャファルの痛切な声に、アイシャの胸が激しく痛んだ。
「陛下のお傍に、お戻りになる気持ちは、ございませんか」
アイシャの心が、強く揺れた。戻りたくないわけではなかった。半年間、陛下の声を、寝顔を、栞を挟む指先を、忘れたことなど一度もなかった。今、ジャファルの口から王陛下が眠れていないと聞いて、今すぐにお傍に行きたいと思った──。
けれど、アイシャは、毅然と顔を上げた。
「わたくしは、戻りません」
声が、小さな部屋の中ではっきりと響いた。
「わたくしは、王陛下を欺いた女でございます。文官として身を偽り、家の名を隠し、王の閨に侍りました。お傍に再び侍るなど恐れ多いことでございます」
ジャファルは、何も言わずに、アイシャを見ていた。
「それに、我がハサーン家は、この香料をめぐる事件の渦中におります。わたくしの存在そのものが、陛下を蝕む新たな毒になりかねません」
アイシャは、まっすぐにジャファルを見た。
「わたくしは、ハサーン家の人間として、この事件の責任を取らねばなりません。これから家に戻り、継母の動きを調べます。ですから、少しだけお待ちいただけませんでしょうか。すべてが分かった暁には、このことを王陛下にお伝えいただきたいのです。私のことも含めて」
応接室は、静まり返っていた。ジャファルの目が、しばらくアイシャを見つめていた。その目には、最初の警戒はもう、なかった。代わりに、ジャファルは深く頷いた。
「あなたのご意思は、確かに受け取りました」
「ジャファル様、ありがとうございます」
「それから──」
ジャファルは少し考えるようなそぶりを見せた。
「この裏には、おそらく糸を引いている人物が他にいるはずです。決してお一人で無理はなさらぬよう」
「はい。お心遣い感謝いたします」
ジャファルは、立ち上がってアイシャを部屋の外へと送り出す。帰り際、扉のところで、ふと振り返った。その目は、いつもの侍従長の冷徹な目とは、わずかに違っていた。
「アイシャ嬢」
「はい」
「幸運を、お祈りしております」
「ジャファル様も。それから……王陛下も、ご無事であられますよう」
アイシャを見送ったあと、ジャファルは、心の中で、別の言葉を呟いていた。
──惜しい方だ。陛下の伴侶に、これほど相応しい方は、いないだろうに。
けれどそれは、誰の耳にも届くことのない、独り言だった。
※※※
屋敷に戻ったのは、昼前だった。
継母のラビ―ナは、まだ戻っていなかった。
ドゥンヤを使いに出していたので、屋敷の中は静かだった。アイシャは、深呼吸を一つすると、継母の私室に向かった。
ラビ―ナの部屋は、香水と紅茶の匂いが混じった、独特の空気が漂っていた。
書き物机の引き出しを、まず開けてみる。手紙の束。茶の領収書。装飾品の請求書。日常の書類しかなかった。
それはそうよね。こんな表面的なところに、決定的な書類を置いておくはずがない。アイシャは、部屋の中をゆっくりと見回した。
壁に掛けられた絵画の裏。
寝台の枕の下。
箪笥の奥。
書棚の特定の本の中。
ふと、書棚の前に立った。
ラビ―ナの書棚は、表面的には、教養を装うための装飾の意味合いが強かった。哲学書、詩集、聖典の類。継母がそれらを実際に読んでいるところを、アイシャは一度も見たことがなかった。その書棚の、上から二段目の棚に、ある一冊の本が目を引いた。
『東方の薬草学』。
ラビ―ナお母様が、薬草の本を持っているなんて。
アイシャは、その本を引き抜いた。予想通り、本の中身は刳り貫かれていた。中に、折りたたまれた書簡が、いくつか押し込まれていた。
アイシャは、書簡を取り出し、最初の一通を開く。
差出人の印章は、ハサーン家の紋章ではなかった。書面の文面は、暗号めいていた。「品」「月の納め」「予定通り」。別の書簡を開く。「来月の納めも、これまで通り」「品の質には、変動なきよう」。
間違いない。ラスターラの納品の指示だ。誰かがラビ―ナお母様に命じて、ラスターラを王宮に納品させていた。
もう一通。アイシャはぱさりと手紙を開いた。
今度は、もっと個人的な響きの書簡だった。
『我が愛するラビーナ。我らの血を分けた息子が、立派に育って誇らしい。だが、まだ、表向きは秘さねばならぬ。我らが息子には、ハサーン家の嫡男として家を継いでもらう。時が満ちれば、私がお前と結ばれる日も来よう。それまでの辛抱だ』
頭を殴られたような衝撃。
ラビ―ナお母様が、この男と、関係を持っていた。そして、二人の間に、息子がいる。そして、それはハサーン家の嫡男として育っている。
ラシード。
ラシードは、お父様の子どもではない……?
そのとき、どこからか足音が近づいてきた。




