第14話 継母の裏切り
ラシードは、お父様の血をひく子どもではない……?
アイシャが茫然としていると 廊下から、足音が聞こえた。
ラビ―ナお母様だ。アイシャは、慌てて書簡を本に戻し、本を書棚に戻した。そして、衣装箪笥の奥に身を滑り込ませた。重い天鵞絨の衣がいくつもかかっている、その奥。扉を、内側から、わずかに細く開けたまま閉めた。
扉が、開いた。
「ラビーナ様、上着を、お預かりいたします」
「もう下がって良いわ。疲れたの。しばらく一人にしてちょうだい」
アイシャは、息を殺してじっとしていた。
すると、もう一つ、足音が部屋に入ってきた。低く重い。男の足音。
「お待ちしておりましたわ」
「ラビーナ。久しいな」
「お手紙をお送りしても、ちっとも返してくださらないから」
ラビーナの声には、媚びがあった。長年積もった想いを抑えきれない、という響き。けれど、男の返事は、ひどく素っ気ないものだった。
「近頃、忙しいのでな」
ただ、それだけ。
ラビーナは、わずかに口ごもった様子だった。
「あの、わたくし、毎日、あなたのことを考えて」
「ラビーナ。あの娘はどうした」
男の声は、冷たかった。
ラビーナの擦れた声を、まったく受け止めていない響きだった。
「アイシャですか? あの娘なら、ジャーミー家の長男に嫁がせるつもりです」
「そうか。なら急げ。さっさと片付けろ。あの娘、今日、王宮に現れた」
アイシャは思わず声が出そうになって、息をとめた。王宮に行ったことがばれている。王宮の内部に、この男の協力者がいる。
「アイシャが。まさか、そんな」
ラビ―ナの上ずった声が小さく響いた。
「お前が思っているよりあの娘は厄介だ。王宮には手をまわしておいた。次に現れれば、排除する」
男の声が一層低くなった。
「そんな。そこまでされなくとも──」
「香料の納めは、これまで通りか」
ラビ―ナの震える声に、男の低い声が重なった。
ラビーナは、わずかに沈黙した後、応えた。
「は、はい。これまで通り、月ごとに、滞りなく」
「王宮にも、噂が広まっている。近頃とみに顔色が悪い、とな。あの男は、もうあと一年、いや、半年も持つまい」
男の声には、わずかな満足が滲んだ。
「そうなれば、我らが王弟殿下が、王座につかれる」
「……殿下のご様子は」
「相変わらず、王座など興味はないとおっしゃっている。殿下は民と交わって暮らすことをお望みだ。なぜそのような変わったことを望んでおられるのか、侍従の私には理解しかねるがな。だが、兄が崩じれば次は近い者が継ぐ。それが、この国の道理だ。殿下には、なんとしても玉座についていただく」
アイシャは、衣装箪笥の中で、震えた。
王陛下を、ゆっくりと薫香で蝕んで殺す計画。しかも、王弟殿下ご本人は、それを望んでいない。この男は、王弟殿下のお望みすら無視して、王座につけようとしているなんて。
しばらくの政治的な話の後、ラビーナの声が、また、わずかに変わった。
「あの、わたくしもお話が」
「何だ」
「ラシードのことでございます。ラシードは、家督を継ぐべく、勉学に励んでおります。あの子は、賢い子です。あなたに似て」
「ああ」
「あの子も、もう成人いたしました。本当の父親があなただと、明かしてあげたいの」
男は、しばらく何も言わなかった。
それから、低く、突き放すように言った。
「ラビーナ。何度も言っているだろう。今は、その時ではない」
「ですが」
「お前とラシードのことは、計画が成就した後だ。それまでは、ラシードはハサーン家の人間として、家督を継ぐ立場にいてもらわねばならぬ。今、世に明かしては、我らの企てが、すべて瓦解する」
「ですが、わたくしは、あなたのために、夫を欺き、子を産み、十年以上、ずっと──」
「ラビ―ナ」
男の声が急に甘い香りを漂わせた。
「愛しいラビ―ナ。お前のことを愛しているからこそ、この件は慎重に進めたいのだよ。今は、まだその時ではない。分かってくれるな」
沈黙の中で、ささやかな衣擦れの音だけがした。
「あなた……」
「お前の役目は、香料の納めを滞りなく続けること。それから、アイシャを宮廷の奥に送り込むことだ」
男が、ラビ―ナに何かを呟いたが、アイシャには聞こえなかった。
「では、これで失礼する」
男は、立ち上がる気配を見せた。
「もう少し、お話を」
ラビーナの声が、すがるようになった。
「もう少しだけでも──」
「ラビーナ」
男の声は、冷たく断ち切るようだった。
「お前の役目を、果たせ」
扉が開く音がして、半刻ほどのち、ラビーナも部屋を出ていった。
アイシャは、衣装箪笥の中で、ようやく深く息を吐いた。膝が、震えていた。立てるかどうか、自信がなかった。それでも、立たねばならなかった。
廊下に、誰もいないことを確認して、自分の部屋へと、戻ると、扉の前に、崩れるように座り込んだ。頭の中で、聞いてしまったことが、繰り返し回っていた。
黒幕は王弟殿下の側近。その男が、ラシードの実父で。ラビーナお母様は、その男に、想いを寄せ続けてきた。けれど男は、ラビ―ナを、ただの駒としてしか見ていない。おそらくラビ―ナはこの家に入ってきたあの時、すでに子をお腹に宿していたのだろう。お父様は、それを知らずに、後妻として迎えた。そして、ラシード自身も、自分の本当の父親の存在を知らされていない。
ラビーナお母様が、いや、ラビ―ナが、私を嫁がせようとしてきたのは、私を愛していないからだ、とずっと思ってきた。けれど、そうではなかった。ラビ―ナは、男のために、私を駒にしていただけ。もしかしたら、ラシードも、お父様も、ラビ―ナにとっては、男との結びつきを保つための駒に過ぎなかったのかもしれない。
なんてひどい裏切りだろう。一体、どれだけの人を不幸にして、苦しめれば気が済むの。
アイシャは、手を強く握りしめた。
血の気の無くなった肌は、白く透き通っていた




