第15話 マルジャナ先輩
ラビ―ナと男の悪事を、明るみにしなくては。
アイシャは、考えを巡らせた。
お父様は──、信じてくれるだろう。でも、ラビ―ナに長年押さえ続けられてきた人だ。対抗できるかどうかは、分からない。
ラシードは──、協力してくれるだろう。けれど、実の母親を断罪することになる。それはあまりに酷だ。
王宮の誰かに頼むしかない。
アイシャは机の引き出しを開けた。古い紙束の奥に、半年前まで使っていた経理部の手帳がある。表紙の内側に、何人かの同僚の名前が書いてあった。経理部長、副管理職、見習い文官の名前。その中に、マルジャナの名があった。
半年前、突然消えた私のことを、どう思っただろう。何も伝えず連絡を絶っていた人に、突然手紙を出すことの不躾さ。それでも、ほかに頼れる人がいなかった。
アイシャは、机に向かい、短い文を書いた。
『お久しぶりです。半年前、急に職場を離れたこと、本当に申し訳なく思っています。大変ご無礼なお願いとは承知していますが、お会いできませんでしょうか。お話したいことがあります。市場の南、噴水のある広場で、お待ちしています。明日、昼の鐘の頃に』
差出人の名は、書かなかった。マルジャナ先輩なら、私のことだと察してくれるはず。
手紙を封筒に入れ、ドゥンヤを呼んだ。
「ドゥンヤ。これを、王宮の経理部宛に。マルジャナ、という文官に届けてほしいの。私の名前は出さないで。匿名の差出として」
ドゥンヤは怪訝そうな顔をしたが、いつものように、それ以上は問わなかった。
「承知いたしました」
ドゥンヤが屋敷を出ていく音を聞きながら、アイシャは深く息を吐いた。
※※※
翌日、昼の鐘が鳴る少し前、アイシャは市場の南の広場に着いた。
商人の声、家畜の鳴き声、子供の笑い声。市場の喧噪がアイシャを包み込んだ。令嬢の装いの上に外套を羽織り、頭巾を深くかぶっている。誰もアイシャに気づかない。それが、今日のアイシャに必要なものだった。
噴水の縁に腰掛けて、しばらく待った。
マルジャナ先輩が来てくれるかどうか、確信は持てなかった。半年も連絡を絶った後輩からの手紙。警戒してこないのが当然だ。
昼の鐘が鳴った。
商人たちの動きが一段落する時間。
しばらくして、人の流れの中から、見覚えのある姿が現れた。ゆるく巻かれた銀の髪。整った化粧。派手すぎない、けれど目を引く立ち姿。文官の制服ではなく、市場に溶け込む簡素な装い。マルジャナだった。
その姿を見た瞬間、半年前に戻った気がした。私はまだ文官として働いていて、マルジャナ先輩と市場でお昼を食べにきただけなのではないか、と。
マルジャナは噴水の縁にいるアイシャに気づくと、まっすぐ歩いてきた。隣に腰を下ろす。
「アイシャちゃん」
声は、いつものものだった。半年前と、何一つ変わっていない調子。
「先輩」
アイシャは、それ以上の言葉が出てこなかった。半年ぶりに会えた喜び、申し訳なさ、これから話すべきことの重み。すべてが胸の中で混ざり合っていた。
「元気そうで、何よりだわ」
マルジャナは、噴水の水面を見ていた。アイシャを覗き込まなかった。それが、かえって、アイシャを楽にした。
「先輩。私、急に仕事を辞めてしまって──」
「いいのよ。あの時、いろいろあったでしょう」
マルジャナの言い方は、まるで何が起きたか知っているような調子だった。アイシャは、その調子に少しだけ違和感を覚えた。けれど、すぐに自分を納得させた。多分、ラビ―ナが書いた辞職届には、縁談だとか体調不良だとか、あること無いことが、色々が書いてあったんだろう。
「先輩、ご相談したいことがありまして」
「ええ。そうだと思ったわ」
マルジャナは、ようやくアイシャの方を向いた。紅い瞳が、半年前と同じように、静かにアイシャを見ていた。
「歩きながら、お話しましょうか。ここは、人が多い」
マルジャナはそう言って立ち上がった。アイシャもそれに従った。
二人は市場を抜けて、近くの古い庭園のある小路に入った。庭園は手入れされておらず、ところどころに古い石の像が傾いて立っている。人の気配がない、静かな場所だった。
歩きながら、アイシャは話し始めた。
自身が平民ではなく、貴族の令嬢であること。半年前、香料部の納品記録の照合の中で、王陛下の不眠を引き起こす薫香の異常を見つけたこと。倉庫に忍び込んで証拠を写したこと。発注者が自分の家、ハサーン家であったこと。
文官の任を継母に勝手に解かれ、半年間、何もできずに過ごしたこと。
昨日、ジャファル侍従長を訪ねて証拠の紙片を渡したこと。
継母の私室で、新しい証拠を見つけたこと。継母と王弟殿下の側近が、王陛下を蝕む計画を進めていること。継母が、夫を欺いて、長年その男との関係を続けてきたこと。
話すうちに、アイシャの声は震え始めた。マルジャナは黙って聞いていた。途中で、口を挟まなかった。歩く速さも変えなかった。古い庭園の奥、井戸のあった跡地のような場所で、二人は立ち止まった。
「先輩、すべてを、王陛下にお伝えしたいのです。けれど、私はすでに警戒されている。王宮を訪問することはできません。手紙では、誰の手に渡るか分かりません。王宮文官の先輩しか頼れる人がいないんです」
アイシャは、懐から畳んだ紙を取り出した。継母の私室で得た情報を、自分の手で書き起こしたもの。差出人を伏せ、要点だけを記した文。
マルジャナは、紙を受け取った。すぐには開かず、ただ手の中に持っていた。
しばらく、沈黙があった。
マルジャナは、井戸跡の縁に腰を下ろした。アイシャもその隣に座った。
「アイシャちゃん」
「はい」
「あなた、半年前、私が言ったこと、覚えてる?」
アイシャは、首をわずかに傾けた。
「と、おっしゃいますと」
「困ったことがあったら、私に相談して、って言ったでしょう」
「はい」
「あの時、私、本気で言ってたのよ」
マルジャナは、紙を懐に納めた。
「あなたが、香料部の件に気づいていたことは分かっていた。なにより、その仕事を手伝うように言ったのは、私だったから」
アイシャは、マルジャナの方を向いた。
「先輩、それは──」
「あなたが文官を辞めさせられた後、ずっと心配していた。けれど、私からあなたに連絡を取れば、あなたを家の中でさらに追い詰めることになる。それに、私自身も、事情があって動けなくてね。だから、何もできなかったの。ごめんなさい」
マルジャナは、井戸跡の苔むした石を、指でなぞっていた。
「でもね、アイシャちゃん。あなたは、あなたが思っているより、ひとりじゃない。あなたを守りたいと思っている人は多いわ。私のようにね」
「先輩、それはどういう──」
マルジャナは、ふっと笑った。けれどその笑みは、半年前の経理部で見たものとは違っていた。柔らかさの奥に、何か別のものがあった。
「その証拠のことは、私に任せて」
「先輩」
「詳しく言うことはできないけど、この紙は、確実に、しかるべき方の手に渡すわ。ヴァテールの女神の名にかけてね」
アイシャは、マルジャナの言葉の意味を測りかねた。マルジャナのような経理部のいち文官に、王陛下に直接届ける伝手があるとは、考えにくい。けれど、マルジャナの言い方には、迷いがなかった。なにより、ヴァテールの女神にかけると言うことは、誓いを破れば死をもって償うと言う意味だ。
「先輩、本当に、何者なんですか」
真剣に問い返すつもりが、アイシャはなぜか、微笑んでしまった。マルジャナの真摯な気持ちが嬉しかったからかもしれない。
「アイシャちゃん」
「はい」
「私、あなたのことが好きよ」
マルジャナの声は、いつもの軽い調子に戻っていた。
「経理部に来た最初の日から、なんだか気になってね。地味な制服を着て、必死に数字に向き合うあなたは、とっても輝いていた。ずっと、ここにいればいいのに、って思うほど」
「先輩」
「本当に。あなたは、あいつなんかには、勿体ない──」
マルジャナの瞳には、いつもの冗談めかした光ではない、もっと深いものがあった。
「先輩?」
「ふふふ」
マルジャナは、いつもの軽い調子に戻ると、アイシャの肩を、ぽんと叩いた。
「お礼は、まだ早いわよ。これからが、本番なんだから」
マルジャナは立ち上がった。
「アイシャちゃん。家に戻ったら、できるだけ、慎重にね。継母には、今、何かを掴まれていると感づかれちゃいけない。あなたが何かを知ったと察したら、向こうは、必ず動く。次は、強硬手段に出るかもしれない」
「強硬、手段」
「穏便な縁談がうまくいかないなら、別の方法を取るかもしれない。古い慣習、たとえば、誘拐婚なんていう手も、形式上は今でも使えるわ」
誘拐婚。
アイシャの背に、冷たいものが走った。
「でも、誘拐婚は」
「そう。禁じられた古い慣習よ。けれど、形式上、相手方が拐かして既成事実を作れば、婚姻は成立する。法では禁じられているけれど、実行できないわけじゃない」
マルジャナは、アイシャの肩に手を置いた。
「だから、これから、できる限り屋敷から出ないで。誰か、そうね、侍女をいつも傍に。怪しい動きがあったら、すぐ、私に知らせて」
「知らせるって……」
「あなたの屋敷に、明日から、しばらくの間、近所の植木屋が出入りすることになるわ。植木屋に、メモを渡して。それで、私に届くようにする」
明日から。植木屋を手配。アイシャは驚いたが、マルジャナの強い口調に、頷ずくしかなかった。
「ありがとうございます、先輩」
「それから、アイシャちゃん」
マルジャナは、アイシャの黒髪をなでて微笑んだ。
「ずいぶん、髪が伸びたわね。このまま切らないで、伸ばしておくようにね」
「え?それってどういう意味で──」
アイシャの質問には答えないまま、マルジャナは踵を返し、古い庭園の小路を歩いていった。




