第16話 花嫁の誘拐
マルジャナと会ったその足で、アイシャは父の書斎の前に、向かった。
父の書斎を訪ねるのは、何年ぶりだろう。母が亡くなってから、父はこの書斎にこもることが多くなった。仕事の書類を読み、本を眺め、たまに庭を見る。継母のラビ―ナが屋敷を実質的に動かすようになってからは、父はますます書斎に閉じこもった。アイシャが、父の書斎で過ごした思い出は、もう、随分と遠いものになってしまった。
扉を、軽く叩いた。
「お父様、よろしいでしょうか」
「アイシャ? 入りなさい」
父の声は、いつものように穏やかだった。
書斎は、本の匂いと、わずかな葉巻の香りで満ちていた。父は窓辺の机に向かい、書類の束を眺めていた。アイシャを見ると、わずかに微笑んだ。
「珍しいな。お前が、書斎に来るなんて」
「お父様、お話があるのです」
父は書類を脇に置いた。アイシャに、向かいの椅子を勧めた。アイシャは腰を下ろした。
「お父様、これからお話しすることは、とても辛いお話です。けれど、聞いてくださいませ」
「なんだい? そんなに改まって」
「お父様は、私が文官として王宮に勤めていたことを、ご存じでしたか」
父はわずかに目を細めた。
「ラビーナから、聞いていた。お前が、療養を装って王宮に通っていると」
「お父様は、そのことをどう思われていたのですか」
「お前が、家のために嫁ぐのを嫌がっていたのは、知っていた。せめて、つかの間でも自由な時間を与えられたら、と思っていた」
アイシャは、深く息を吐いた。父を責めに来たのではなかった。
「お父様。これから言うことは、私が文官として働く中で気づいたこと。他言無用でお願いいたします」
アイシャは、半年前に経理部で見つけたラスターラの異常から、話し始めた。香料部の倉庫に忍び込み、発注者がハサーン家であることを確かめたこと。文官の任を継母に勝手に解かれ、半年間、何もできずに過ごしたこと。舞踏会で王陛下に正体を見抜かれ、ジャファル様を訪ねて紙片を渡したこと。
父は黙って聞いていた。途中、何度か眉を寄せた。けれど、口は挟まなかった。
「それから昨日、ラビーナお母様の私室を、調べました」
父の表情が、ようやく動いた。
「ラビーナの、私室を?」
「はい」
アイシャは、懐から書き起こした紙を取り出した。ラビーナの私室の本の中にあった書簡を、自分の手で写し取ったもの。
「ラビーナお母様は、王弟殿下の側近と、長年通じていました。香料の納品を指示していたのは、その男です。王陛下を蝕み、王弟殿下を強引に王座につけようとする計画です。王弟殿下ご本人は、それをお望みでないにもかかわらず」
父の手が、紙を受け取った。
しばらく、文字を辿っていた。
「アイシャ。これは、本当か」
「はい」
「ラビーナが、こんなことを」
父はもう一度、紙を読み直した。
書簡の一通には、「我が愛するラビーナ」という呼びかけがある。「我らの血を分けた息子」という表現がある。
父の指が、その箇所で止まった。
「アイシャ」
「はい」
「まさか、これは──」
「ラシードのことかと思います」
父の手から、紙が落ちそうになった。アイシャは、それを支えた。
「お父様。ラビーナお母様は、いえ、あの人はお父様と再婚なさる前から、あの男との関係を続けていたのです」
父は、何も答えなかった。
長い沈黙があった。
書斎の窓の外で、葉ずれの音だけが続いた。
やがて、父は深く息を吐いた。
「やはり、というべきなのかもしれないな」
父の声は、低かった。
「お前の母が、エレーヌが亡くなって、私は、ただ、寂しさから逃げたかった。ラビーナを娶るとき、何かおかしいと感じたことが、何度かあった。お腹の子の話を、彼女がうまくはぐらかしたこと。婚礼の前に体調を崩して長期間屋敷から離れたこと。けれど、私は、それを問わなかった。面倒だと思っていたのかもしれない」
父は、しばらく窓の外を見ていた。
「アイシャ。お前を、長年、苦しめてきた。本当に、すまない」
父は立ち上がり、アイシャの方に歩み寄った。
そして、深く頭を下げた。
「お父様、顔を上げてください」
「いや、頭を下げさせてくれ」
父は、しばらくその姿勢のままだった。しかし、やがて顔を上げた父の目には、これまでアイシャが見たことのない強さがあった。
「アイシャ。これからのことは、私に任せなさい」
「お父様、けれど」
「ラビーナを、私はもう、家の女主人として扱わない。お前を守る。家の名にかけて」
アイシャは、父の手を取った。その手は、痩せていた。けれど、温かかった。
「お父様、ありがとうございます」
「ラシードのことは、私から話そう」
「ラシードに?」
「あの子には、知る権利がある。それに、これ以上、あの子を母親の道具にさせるわけにはいかない。今夜、私が話そう」
「あの、ラシードは、お父様にとって──」
「血のつながりが無くても、大事に育てた我が子であることに変わりはないよ」
アイシャは、その言葉にほっと息をついた。少なくとも、ラシードがひどい扱いをされたり、急に家から放り出されるようなことはなさそうだ。
※※※
その夜。
アイシャは自分の部屋で、就寝前の読書をしていた。
そろそろ眠ろうかという時、どたばたと足音が聞こえ、ノックの音もなく扉が開いた。
「姉さん!」
顔色が、白かった。普段の穏やかな碧の瞳が、今夜は揺れていた。
「父上から、聞いたよ」
ラシードの声は、低かった。
「僕の本当の父が、王弟殿下の側近だって。母上が、その男と王陛下を蝕む計画を進めていること。そして、姉さんが、それを暴こうとしていることも」
ラシードが、アイシャに一歩近づいた。
「僕は、姉さんの味方だよ」
「ラシード。でも、それは……」
ラシードは、首を振った。
「あの人は、僕の母だ。けれど、十年以上、父上を欺き、姉さんを駒として動かしてきたなんて、許せない。僕は母上の側には立たないよ。姉さんの味方だ」
アイシャは、ラシードの腕に手を添えた。
「ラシード。ありがとう」
「それから、姉さんに伝えたいことがあるんだ」
ラシードは、アイシャの方を向いた。
彼の目には、これまで見たことのない種類の決意があった。
「僕は姉さんのことを、ずっと──」
その時だった。
屋敷の外で、複数の足音が響いた。
馬の蹄の音。男たちの声。
アイシャとラシードは、同時に窓の方を見た。
屋敷の正門が開かれる音。それから、屋敷の中に踏み込む靴音。
「アイシャヌール嬢は、どこにおられる」
階下から、男の声が響いた。
「花嫁を、いただきに参った」
アイシャの全身から、力が引いていった。
花嫁の迎え。
それが何を意味するか、アイシャはマルジャナの言葉から知っていた。
「姉さん」
「ラシード、これは──」
「姉さん、逃げて」
ラシードはアイシャの腕を取った。けれど、扉の向こうで、すでに男たちの足音が近づいていた。
扉が、勢いよく開いた。
数人の男が、踏み込んできた。屈強な体つきの、傭兵のような風体。先頭の男が、アイシャを見据えた。
「アイシャヌール嬢、ですな」
「あなた方は」
「ジャーミー家のジェイド様の妻としてお迎えする」
アイシャは、後ずさった。
「わたくしは、そのような縁談を、承諾しておりません」
「花嫁の承諾は、必要ない。我らは奪うまで」
男の言葉に、アイシャは凍りついた。
誘拐婚。
マルジャナが言った通りのことが、今、起きている。
「姉さんに何をする」
ラシードは、男たちに飛びかかった。
けれど、男たちの方が圧倒的に多く、屈強だった。ラシードはあっという間に、二人の男に押さえつけられた。
「ラシード!! 誰か! 助けて!」
アイシャは叫んだ。けれど、屋敷の中は、奇妙に静かだった。普通なら、屋敷の護衛が、気づいて駆けつけるはず。なのに、誰一人としてくる気配がない。静けさが、痛いほどだった。
男が、押さえつけられたラシードを見下ろして、薄笑いを浮かべた。
「これは、これは、ラシード様。このようなことをされては、お母上が悲しまれますな」
「母上が? お前、何を言って──」
「こたびの婚姻は、あなたのお母上も承知されていること」
男の一人が、アイシャの腕を掴んだ。
「では、参りましょう、花嫁様」
「離してください!!」
「ご無礼を、お許しください」
男はアイシャを抱え上げた。
「姉さん!!」
ラシードの声が、後ろから響いた。彼は男たちに押さえつけられたまま、もがいていた。
「姉さんを離せ! 姉さん! アイシャ!!」
アイシャは、ラシードの方を振り返ろうとした。けれど、男に抱え上げられた身体は、思うように動かなかった。
男たちは、アイシャを馬車に押し込むと、外から鍵をかけた。
アイシャは座席に身を預けた。
恐怖と、絶望と、それから、別の感覚が、混ざり合っていた。
このまま、ジャーミー家へとたどり着いたら、夫となる人物と、同じ寝室で一夜を過ごすことになる。それがどのような夜であれ、夜が明ければ、ジャーミー家の妻と認められ、逃げだすことは、もう叶わない。
アイシャの眼にじわりと涙が浮かんだ。
──王陛下。
お会いしたい。
もう一度、お会いしたかった。
アイシャの祈りを断ち切るかのように
馬車は、夜の街道を走り続けた。




