第17話 花嫁の誘拐Ⅱ
その夜のシャハリヤールは、執務室にいた。
つい先刻、ジャファルから報告を受けたばかりだった。ハサーン家のラビーナと王弟の側近イスマイールが、長年通じていること。香料の納品を指示していたのは、その男であること。王弟の本意とは無関係であること。そして、それらを暴いたのが、文官のアイシャ=ルーン、いや、ハサーン家の令嬢アイシャヌールであること。
書斎の卓には、アイシャからの書付が広げられていた。彼女自身の手による文字。半年ぶりに目にする、彼女の筆跡。シャハリヤールはそれを、何度も読み返していた。書付の内容ではなく、文字そのものを見ていた。文字の筆運び、墨の濃淡、紙の折り目――そこに、彼女の指の動きが残っていた。
彼女は、私を裏切ってなどいなかった。それどころか、こうして私の身を心配し、自らの身の危険も省みず、証拠を届けてくれた。彼女は、私を嫌ってなどいなかった。
シャハリヤールは、陰謀が明らかになったことよりも、アイシャの動きにこそ心を動かされた。あの華奢な身体で、触れれば壊れてしまいそうな腕で、彼女は私を守ろうとしてくれている。それを素直に嬉しいと思った。そして、この愛しい女をどうすれば守れるのか、考えを巡らせた。
アイシャを、どう保護するか。彼女の家、ハサーン家を、どう扱うか。考えるべきことは多かった。けれど、頭の中で議論が荒れることはなかった。半年間、ずっとシャハリヤールを苛んできた頭の中の声は、今夜は、奇妙に静かだった。
彼女の書付が、目の前にあるからかもしれない。
夜半、執務室の扉が、慌ただしく叩かれた。
「陛下、火急のご報告でございます」
ジャファルの声だった。けれどその声には、いつもの抑制がなかった。
「入れ」
ジャファルが入ってきた。後ろに、もう一人。王弟のジャミールその人だった。頭巾を被り、息を切らしていた。彼がこの夜更けに王宮に駆け込んでくるのは、極めて異例のことだった。
シャハリヤールは、机から立ち上がった。
「何があった」
「兄上」
ジャミールが頭を下げた。
「申し訳ございません。アイシャ嬢が、ジャーミー家に誘拐されました」
シャハリヤールの内側で、何かが砕けた。
「いつだ」
「先ほどです。ハサーン家の屋敷に侵入した者たちが、アイシャ嬢を馬車で連れ去ったとのこと。おそらく、誘拐婚が目的かと」
「くそっ」
シャハリヤールが、小さく毒づいた。思わず、ジャファルが肩をぴくりと動かす。
「馬の支度を」
声は、低かった。
「陛下、近衛兵をお連れください」
「いや、それでは間に合わん。早馬で追えば、まだ間に合う。ジャーミー家の屋敷は、街道で半時の距離だ」
「陛下、お一人では──」
「ジャファル」
シャハリヤールは、ジャファルを見た。
「行かせてくれ」
ジャファルは、深く頭を下げた。
「馬を、すぐに」
ジャミールは、王の表情をじっと見ていた。
「兄上。一つ、お願いがございます」
「何だ」
「アイシャ嬢を、必ずお救いください」
「言われずとも」
「彼女は、私の友人ですから」
ジャミールの声は静かだったが、その紅い瞳は強い光を放っていた。シャハリヤールは、わずかに頷いた。
馬の支度が整うまでの間、シャハリヤールは剣を取り、外套を羽織った。半年ぶりに、自分で剣を腰に下げる感触。即位以来、王として剣を抜く機会はほとんどなかった。けれど、武芸の鍛錬を欠いたことはなかった。指は、剣の柄の感触を覚えていた。
月のない夜の街道を、シャハリヤールは少数の近衛とともに駆けた。
馬の蹄が、闇を切り裂いていった。
頭の中には、ただ一つの像があった。
本を読んでいる女の真剣な顔。
幼い頃の思い出を語る、嬉しそうな顔。
そして、舞踏会の庭園で、月明かりに照らされた寂しそうな顔。
その顔が、今夜、誰かのものになろうとしている。
──そんなことは、許さない。
シャハリヤールは、馬の腹を蹴った。
馬は、夜の街道を、矢のように駆けた。
※※※
ジャーミー家の屋敷に着いた頃、アイシャはすでに花嫁衣装に着替えさせられていた。
屋敷に到着した瞬間から、アイシャに抵抗の余地はなかった。馬車から降ろされ、屋敷の女たちに取り囲まれ、奥の支度部屋に連れ込まれた。
「お静かに」
「お騒ぎになっても、誰の耳にも届きませぬ」
女たちは、慣れた手つきだった。アイシャの旅装を脱がせ、湯で身を清め、白い絹の花嫁衣装を着せた。手首と足首には、金細工の装身具。髪は結い上げ、白い帳をかぶせた。
鏡の前に座らされ、化粧を施された。
鏡の中の自分は、アイシャの知らない女だった。
白い絹に、結いあげた髪、深い化粧。これが、ジャーミー家の花嫁。これが、私。
「お美しゅうございます」
女たちは満足げに頷いた。アイシャは、何も言えなかった。
女たちの誰一人、アイシャに同情する素振りを見せなかった。皆、ジャーミー家の家人として、長男の婚礼を整えるためだけに動いていた。アイシャの意志は、最初から問われていなかった。
「ジェイド様のお部屋にお連れする時刻でございます」
女頭が告げた。
アイシャは立ち上がろうとして、足が動かなかった。
「お立ちください」
「いやです」
「お連れせよ」
女頭の合図で、二人の侍女がアイシャの腕を取った。
アイシャは引きずられるようにして、長い廊下を歩かされた。
ジャーミー家の屋敷は、灯りが少なかった。儀式は奥の寝室で、ごく少人数で執り行われる。誰にも邪魔されないよう隔離したうえで、既成事実を作るのが、誘拐婚の作法だった。
寝室の前で、女たちはアイシャを止めた。
「中で、ジェイド様がお待ちでございます」
「入りません」
「アイシャヌール嬢。ご観念くださいませ」
侍女頭が、わずかにため息をついた。
「これは、もうすでに、決まったことなのです」
扉が、開かれた。
アイシャは、女たちに押されて、寝室の中に入った。
扉が、後ろで閉じられた。
寝室は、燭台の灯りで満たされていた。
大きな寝台、刺繍の入った天蓋、装飾の重なった卓。
すべてが、夫婦の寝所として整えられていた。
寝台の傍に、ジェイドが立っていた。
舞踏会で見たときの、二十代半ばの整った顔立ちの男。アイシャと同じように、白の、しかし、夜着を着ていた。彼の目は、アイシャを舐めるように見た。
「ようこそ、花嫁殿」
ジェイドの声は、舞踏会のときと同じ、ねっとりとした調子だった。
「これほど美しい花嫁を迎えられて、私は幸せ者だ」
アイシャは扉に背中を預けて、後ずさろうとした。けれど扉は外から閉じられている。逃げ場は、ない。
「ジェイド様。わたくしは、この婚姻を承諾しておりません」
声を、毅然と整えた。震える脚を、必死で抑えた。
「承諾、ですか。妙なことをおっしゃる。今夜、こうして我が家にお越しくださったのですから、もう承諾されたも同じこと」
「わたくしは、無理やり連れて来られたのです」
「結果は同じことです」
ジェイドはゆっくりと、アイシャに歩み寄った。
アイシャは扉から離れ、寝室の隅に逃げた。
「お逃げになることはない。私は、あなたを傷つけるつもりはありません」
「近づかないでください」
「つれないことを。我が愛しの妻に、触れさせてください」
ジェイドは、アイシャの数歩前で止まった。
「舞踏会の夜から、ずっと、あなたの事を考えていました。あの夜、あなたは私のお誘いを断ってお逃げになった。あれから、私は、何としてでもあなたを我がものにしたいと、そう思っていたのです」
「ジェイド様」
「そして、今夜ついにあなたを妻に迎えることができた」
ジェイドの目には、強い熱があった。けれどその熱は、アイシャを愛しているからではなかった。アイシャを所有したい、という熱だった。アイシャはそれを、本能で察した。
「申し訳ございませんが、わたくしの心は、別の方に決まっております」
言葉が口から出た瞬間、アイシャは自分でも驚いた。
ジェイドの表情が、わずかに変わった。
「別の方、とは」
「申し上げる必要はございません」
「妻が夫の前で、他の男の話をするなど。躾がなっていませんね」
ジェイドの目から、ねっとりとした熱が引いていった。代わりに、別のものが入ってきた。
苛立ちと、傷つけられたものへの仕返しの感情。
「アイシャヌール」
ジェイドの声は、いくらか低くなった。
「あなたは私の妻だ」
「違います」
「では、思い知らせてやろう」
ジェイドは、アイシャの方に一歩近づいた。
アイシャは、もう一歩、後ずさった。寝室の隅、壁に背中が触れた。
「やめてください、ジェイド様!」
アイシャは、声を高めた。
けれどジェイドはそれを聞かず、さらに近づいてきた。
「こちらへ来い」
ジェイドの手が、アイシャの腕を掴んだ。強い力だった。アイシャはそれを振り払おうとしたが、男の力は彼女の何倍も強かった。
「離してください、お願いです」
「アイシャヌール、最初は、痛むかもしれない。けれど、すぐに馴れる。お前の方から、私を求めるようになるさ」
ジェイドは、アイシャを寝台の方に引きずっていった。
アイシャは抵抗したが、足が床から浮きかけた。
「離して──」
ジェイドはアイシャを寝台に押し倒した。
白い絹の花嫁衣装が、寝台の上で乱れた。
ジェイドの体重が、アイシャの上にのしかかってきた。
アイシャの目に、涙がにじんだ。
──王陛下。
心の中で、何かに祈った。
その瞬間だった。
寝室の扉が、激しく蹴破られた。
扉の木が砕ける音、近衛の靴音、剣を抜く音。
「離れろ」
低い、底のある声。
アイシャは、ジェイドの肩越しに、扉の方を見た。
月のない闇を背にして、長身の男が立っていた。
深い紫紺の外套、剣を抜き身にして手にしている。褐色の肌、月光と燭台の光に銀色に輝く金髪。
シャハリヤールだった。




