第18話 眠れる二人
「貴様」
シャハリヤールの声には、一人の男としての怒りがあった。
「アイシャから離れろ」
ジェイドの顔から、血の気が引いた。彼がようやく王の顔を認識したのは、この瞬間だった。
「し、シャハリヤール王陛下──」
「黙れ」
シャハリヤールの剣の切っ先が、ジェイドの喉に、わずかに触れた。そして、そのままジェイドを後ろ手にして縄で縛ってから、寝台の上のアイシャに、近づいた。
アイシャは、寝台の上で、半身を起こしかけていた。花嫁衣装の白い絹は乱れ、髪を留めていた帳もずれている。腕には、強く引っ張られたせいか、赤い跡が残っていた。
シャハリヤールは、思わず怒りで我を忘れそうになった。しかし、彼女の頬に涙の跡を見つけると、怒りを抑え、静かにゆっくりと頬に手のひらを寄せた。
「アイシャ」
声は震えていた。
「無事か」
アイシャは、何かを答えようとした。けれど、声が出なかった。うつむいたままでいると、シャハリヤールがそっとアイシャを抱きしめた。
強く堅い胸。
腕の温もり。
それらすべてが、アイシャを包み込んで離さなかった。
「王陛下、私は」
ようやく、その一言だけ、声に出た。
「良い。すべて知っている」
シャハリヤールの声は、低かった。
「帰ろう。アイシャ」
アイシャは、王の胸に顔を埋めたまま、何度も、何度も、頷いた。
※※※
屋敷の外には、王宮から手配された馬車が用意されていた。
近衛が、ジェイドを別の馬車に押し込めて連行していった。屋敷の他の家来衆も、すでに近衛の手で取り押さえられている。
シャハリヤールは、アイシャを抱き上げると、馬車の中に運んだ。アイシャはそのまま王の腕の中に収まった。御者が一礼し、扉が閉じられた。馬車が、夜の街道を、王宮に向かって走り始めた。
アイシャは、何かを話そうとした。半年間、ずっと心の中で抱えてきた言葉。謝罪。詫び。事情の説明。それらが、すべて、口から出かかった。
「王陛下、私は──」
しかしシャハリヤールは、ただ、彼女の髪を撫でた。
「今は、何も言わなくていい」
声は、低かった。
「もう少し、お前と、こうしていたい」
アイシャは、頷こうとして、首が動かなかった。
シャハリヤールの手のひらが、ゆっくりと、アイシャの髪を撫でていた。結いあげていた髪は、寝台の上で乱れたまま、半ば解けかけていた。太く長い指が、その解けた髪に、何度も何度も触れた。
馬車の揺れが、一定に身体を揺らす。アイシャの耳には、ゆっくりとした鼓動の音が聞こえた。その音を聞きながら、瞼が重くなっていくのを感じた。
眠ってはいけないわ。王宮に戻ったら、すべてを説明しなければ。半年間の事情を、文官辞職の夜のことを、ハサーン家の罪を、そして、それでも私が、王陛下をお慕い申し上げていることを。
けれど、瞼は、抗えなかった。
ジャーミー家の屋敷で味わった恐怖が、すっと身体の中から抜けていった。代わりに、深く温かい安心感がアイシャを包み、次に強い眠気が襲ってきた。
王陛下はこの半年眠れていないとおっしゃっていた。でも、実は私の方こそ、ずっと深く眠れていなかったのかもしれない。身体から緊張が解けぽかぽかと温かくなっていくのがアイシャには分かった。王陛下の熱のせいだわ。アイシャはそう思った。
そして、肩に頭を預けたまま、深い眠りに落ちていった。
※※※
シャハリヤールは、アイシャの寝顔を見下ろした。
半年ぶりに会えた、愛しい女。わずかに開いた唇、長い睫毛が頬に落とす影、規則正しい呼吸。それらすべてを、シャハリヤールは目で辿った。
彼女の髪を撫でる手は、止めなかった。否。止められなかった。彼女が眠ってから、シャハリヤールは、座席の背に頭を預けた。すると、不思議なことにシャハリヤールの瞼も、次第に重くなっていった。
まさか。あれほど渇望していた眠りが、今この時にやってくるとはな。
シャハリヤールは自嘲しながらも、やはり、という気がした。
傍に、彼女がいる。彼女の呼吸の音が、耳に届いている。そのことが、何よりだった。シャハリヤールは、アイシャの頭を肩に預けたまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。深く、柔らかに。半年ぶりの、深い眠りに。
馬車は、夜の街道を、王宮に向かって走り続けた。
二人の眠りを乗せて。
※※※
王宮に到着したのは、夜明け前だった。
馬車が王宮の正門を抜け、車寄せに止まった。
ジャファルは、車寄せで馬車の到着を待っていた。御者が一礼し、馬車の扉に手をかける。扉が、静かに開かれた。
シャハリヤール王陛下が、座席の背に頭を預けて、深く眠っていた。その肩に、アイシャ嬢が、頭を預けて眠っていた。
二人の身体は、互いに寄りかかるようにして、馬車の灯りに照らされていた。手は、アイシャ嬢の髪に、置かれたままだった。
ジャファルは、その光景を、しばらく見ていた。
待ち望んでいた光景だった。
半年間、ずっと眠れなかったシャハリヤール王陛下。アイシャ嬢が消えてから、夜という夜、寝台で眠れぬ夜を過ごしてきた。その陛下が、馬車の中で、ジャーミー家から戻る道々で、眠っていた。御者と、ジャファルの目を意識する余裕もなく、ただ、深く眠っていた。
ジャファルは、息を吐いた。頬の筋肉が、わずかに緩むのが分かった。長年、王に仕えてきた侍従長の、ほとんど見せたことのない表情だった。
「陛下を、起こさぬように」
ジャファルは、御者と、傍の侍従に、低く告げた。
「お部屋まで、ゆっくりと、お運びしなさい。アイシャ嬢の部屋も、隣室に用意せよ」
「侍従長。起こさずに、運ぶのですか?」
「ああ。絶対に起こさないように」
侍従たちが、戸惑いながら馬車に近づいた。
ジャファルは、もう一度、馬車の中の二人を見た。
「陛下。やはり、必要なのはアイシャ様でしたね」
誰にも聞こえない声で、ジャファルは呟いた。頬の緩みは、まだ、残っていた。
馬車の中の二人を、起こさぬよう、慎重に運ぶ手筈を、ジャファルは静かに整え始めた。
※※※
アイシャが目を覚ましたのは、見知らぬ部屋の寝台の上だった。
絹の天蓋、繊細な刺繍の入った敷布、傍に控える侍女の影。一瞬、ここがどこか分からなかった。けれど、すぐに昨夜の出来事が頭の中で組み立て直された。
そうだ。私、誘拐婚をされそうになって。そして、王陛下が助けてくださって……。そのまま寝てしまったのだわ。なんて失礼なことをしちゃったのかしら。アイシャは、恥ずかしさのあまり、頬がかっと熱くなった。
「お目覚めでいらっしゃいますか、アイシャ様」
侍女の声が、静かに響いた。
「はい」
慌てながら、それでも努めて落ち着いた声を出した。
「アイシャ様。陛下が待っておられます。すぐにご用意を」
アイシャは深く息を吐いた。これから、すべてのお話があるのだ。昨夜の事件のこと、家のこと、そして、私自身のこれからのこと。
※※※
王の私室の扉が、開かれた。
部屋の中央に、シャハリヤールが座っていた。穏やかな表情で、アイシャを見つめていた。傍らに立つのは、ジャファル。アイシャを見ると、深く頭を下げた。
「アイシャ様、ご無事でなによりでした。よく眠れましたでしょうか」
その声には、これまでアイシャが聞いたことのない種類の温かさがあった。
「ジャファル様。昨夜は、ありがとうございました」
アイシャは深く頭を下げた。ジャファル様はきっと、私が馬車の中で眠ってしまったことを知っているのね。そう考えると、またしても恥ずかしい気持ちになった。
「アイシャ。座るが良い」
アイシャは腰を下ろし、卓を挟んで向かい合う形になった。
「まず、報告がある」
「はい」
「昨夜の事件の処理は、すべて済んだ。ジェイドは王宮の牢に。ジャーミー家は屋敷ごと取り押さえた。継母ラビーナは、ハサーン家の屋敷で身柄を確保。王弟側近イスマイールも、明け方に捕縛した。陰謀に関わった者は、すべて押さえてある。処分は、これから決める」
アイシャは、静かに頷いた。覚悟していた展開だった。ハサーン家もこれで終わりだ、と思った。けれど、思っていたより自分自身が落ち着いていることに、自分でも驚いた。
「お前の証拠が、決定的だった」
シャハリヤールの声が、一段下がった。
「半年前、お前が経理部の倉庫で書き写した紙片。先日、お前がジャファルに渡した紙。経理部の者を通じて届いたお前の書付。これらすべてが揃って、初めて、陰謀の全貌を掴めた」
「王陛下、私は──」
「礼を言わせてくれ、アイシャ。お前のおかげで、私は救われた」
じわりとした喜びがアイシャの胸のうちに広がった。王陛下をお助けするのは臣下として当然のことだ。格別、礼を言われるようなことではない。けれどこうして面と向かって言われると、自分の選択が間違っていなかったと思うことができた。ただ、一つ気になるのは。
「ラシードのことは、ご存じでしょうか」
アイシャは、おそるおそる尋ねた。
「ハサーン家のラシードか。あの男は、無事だ。昨夜、お前を救えなかったことに、ひどく自分を責めているそうだ」
「ラシードに、罪は」
「あの男自身は、陰謀には関与していない。血縁の問題は残るが、本人の罪ではない。処分の対象にはしない」
アイシャは、深く息を吐いた。よかった、と心の底から思った。
「それで、私のことは」
アイシャは、姿勢を正した。
ここからが、本題だった。
「私は、半年前まで文官アイシャ・ルーンとして身分を偽っておりました。それから、ハサーン家の娘として、家の罪も負っております。どのようなお咎めも、お受けする覚悟でございます」
アイシャは、頭を下げた。流刑でも、処刑でも、どのような罪でも受ける気でいた。王を弑そうとする。これほどの罪を、償う方法はないのだから。
シャハリヤールは、しばらく何も言わなかった。
「アイシャ。お前は罪には問わない」
「それはどういう意味でしょう」
アイシャは顔を上げた。
「お前の罪と功は、相殺してなお余りある。お前が文官として身分を偽った件は、私が許す。ハサーン家の件も、お前自身は陰謀に関与しておらず、むしろ陰謀を暴いた側だ。お前を罪人として扱うことは、ない」
「ですが、王陛下」
アイシャは、首を振った。
「それでは、私の中で、申し開きが立ちません。いえ、ハサーン家の娘が何の処罰もされないことを知れば、他の者に示しがつきません。王陛下の御聖断を疑問に思う者も出ましょう。何の咎めも受けずにこの身を許されることは、私には、できかねます」
声が震えた。けれど、アイシャは引かなかった。
ジャファルが、わずかに目を伏せた。アイシャの覚悟を、ジャファルは正面から受け止めていた。
シャハリヤールは、しばらく黙ってアイシャを見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「ならば、アイシャ。一つ、私の頼みを聞いてくれるか。それをそなたへの処罰としよう」
アイシャの喉がきゅっと鳴った。どのような処罰であろうとも受ける。そう、覚悟はしたものの、実際にそれを言い渡されるとなると、心臓が震えあがった。
「いかなる処罰も、受ける覚悟にございます」
「そうか。では、私の妃に、なってくれ」




